アガキたいよ、マジで(第2話)

今週もアガきました。100パーセントの力でアガいたかと聞かれたら、まだまだ100パーセントの力には程遠いと思うよ。知っちゃってますから、銀閣さんのバックグラウンドとか。1人でクラブに言って、ひとしきり踊って、「疲れた」って独り言を残して、また1人で家に帰る話とか。大阪に帰ろうと思ったけど、「帰れなかった」話とか。ダンススタジオの下には何も埋まってないんだよ。土俵とは違う、それなのに。


日本には確実にあるよね。そして、自分のなかにも確実にある気がする。自分は何もアガいてないくせに、人がアガいているとそれを「100パーセントの力じゃない」とか「中途半端」「なんちゃって」と貶す傾向って。ネガティブ過ぎる。


100パーセントの力じゃなくても、続けることが大事。逆に言えば、続けられるような負荷に設定して、続けることが大事なんです。だから、どんな形でも続けようと思う。自分、ポジティブマインドですから。


昨日も大学生の男の子に「もう長いんスか、マジかっこいいス」と言われました。最近、そうやって男の子(オッサン含む)に話掛けられることが増えてきたけど、これが女子大生にそう言われるような日も決して遠くないのだと思います。自慢ではありません、何故ならこれは俺の力ではないからね。


いつも同じ話の繰り返しになってしまうが、「継続は力なり」。始める前も、そして始めてからも、心のどこかで「今更」と思っていたし、そう言われることも多かった。何より時間を投資する対象としては非効率だと思っていた。にも関わらず、この取り組みによる結果は常に期待値を越えてくれる。俺の人生において、これまで、ここまで常に期待値を越えてくれるような投資対象はありませんでした。


絶対に忘れてはいけない、継続が全ての力の源だということを。あと心から好きなものに取り組める喜び。とりあえず「アガきたいよ、マジで」を第100話まで「継続」したいと思います。よろしくお願いします。
(K)

アガキたいよ、マジで

日曜日のHiphop Jazzのクラス、いつにも増して満員御礼につき、体をいっぱいに使って踊ることが出来ません。まっすぐに腕を伸ばすことも出来ず、大きく1歩踏み出すことも出来ず。


十分なスペースがあり、欲を言えば、先生の目が届くクラスで練習をしたい。我慢せずに別のクラスを探すことにした。


【途中経過】
Ones、NOA、Jen's、あと渋谷のスタジオを幾つか見た感じでは、時間的に合うJazzの初心者向けコースはHidetomoさんの裏のStreet Jazzだけ。これ以上見つからなければ、来週1度出て確認してみるしかない。これも何かのご縁、とポジティブマインドで。

俺の大恐慌*1

 ばりばり働くとか、結婚するとか、それでも会社辞めて留学するとか、そういった学生時代に想像した大人時代はおおむね20代の話であって、その先にある中間管理職になって人間関係で頭が薄くなるとか、子供が出来て育児に追われるとか、借金して家買って庭いじりするとか、そういう世界は考えていなかった様な気がする。大人の先にあったものは世知辛い現実だけなのか、と想像する。

http://d.hatena.ne.jp/bohemian_style/20080902/p1


サバイバルに漠たる不安があって、目先のこととか、明日会う人たちのことを考え、
どうしようとか、【どう適応する】そんなことばかりに神経をすり減らしている
時間を売っている以外のナニモノでもない


そんな現実は自分の思い描いていたものと違う現実だけど
結局いつも【仕方ない】ということで


やってみたいこと、知りたいこと、表現したいこと、
そういうところから、自分がどういうのが好きか?気持ちいいか、
どういうことが出来たらよいか?、忘れた、わからない


考えていないというよりも、
それがどういうものなのか、どうすれば見つかるのかがわからないという意味


ので、ざっくばらんに、過去を振り返る。
0代、10代、20代では、したかったことを、【したか?】
というか、したかったことが、【あったか?】
そうかんがえると、
今までそうでも無いのが現実なのだから、仕方が・・・

アキハバラ発〜』の論考の中で、斉藤・東の両氏が、人生の若者の間に人生の「偶然性・ギャンブル性」といった感覚が共有されているのでは、という指摘があった。成功したものも、失敗したものも、偶然こういう人生になってしまったのだと。それがときに失望感を生んでいると。
ただもしこれが事実だとすれば、「若者」が感じているのは偶然の名を借りた必然でしかない。
筑波批評社の文章でも書いたが、「偶然こうなってしまったのだ」→「だから仕方がない」という連鎖は、偶然を経由した必然性の密輸入である。
自分を取り囲む大きな世界が作動し、周りに周った結果自分が現在の境遇に至ったのだという思考は、確かに自分の手の手の施しようがないという点では偶然的だが、「だから仕方がない」という諦念につなげてしまっては、他に選択肢がなかったかのような、宿命論が首をもたげてくることになる。

http://d.hatena.ne.jp/klov/20081007/1223375536


仕方ないとか我慢してて、周りはそういうもんだと思って、調子に乗る、
というか、そういう前提で役割を振ってくるので、もはや何処にも自分はいなくなる
自分の感じていること考えていることは無いことに。自分はいないことになる。
昔の言葉で言えば「透明な存在」


金のため、保身のため、目先の孤独や退屈を恐れて?
そんなことを続けてもう40代が見えてしまうから
未来はどんどん限られ、時間が経つ程ジリ貧になり、そういうもんだと思って回りは調子に乗る


意味の無い我慢に対する対価など、この世には存在しない
私はこんなに傷ついた、こんなに(意味の無い)我慢したといって何になる
誰にもそんなことは知られることはない
他人から承認されることはない


環境に適応して生存はしている、それだけが目的になっている
しかし、生きているとは言いがたい
自分で無意味だと思ってしまったら、それが全てだ
自尊心が失われる
救いようはない


要するに自分のことを早い段階で抹殺しました。今、悪かったと思っている。
しかし、我慢にも限度があり、人生が有限でモラトリアムが後退するなら、
もう、未来を犠牲にするような選択、
これがこのまま続くのはいやだと思うことは拒絶するしかない。


逆に、気を取り直し、今後の目標-計画を立て、
今後、そういう方向に行こうとする舵取りをすることを○○という。
※○○を埋める


すると、これまた癖として、
どれだけやれば、いつ頃結果がでるのか?
要領よく辿り着けるのか?
上手くいく秘訣は?
もっとラクできる方法は無いか?
とか、やる前から「改善」
しかしな、
そんなことはどうでもいいんじゃ。


というか、そういうことを言っていられるうちはモラトリアムです。
それが今や、ハッキリしている。
いくしかないんじゃ、と言うことです。


改善して「自分のやり方」とか探すのは、言われたことだけでも
そのまま、きちんとできるようになってからにしてくれますか?
何も身について無い奴が工夫したつもりでも、
変なことになって結局遠回り、どこにも辿り着かない
当たり前に基本ができることが第一条件
そういう謙虚な気持ちで大きく成長してみないか?

自分のなかで「好き」と「得意」を分けてみる。そして、まず「得意」の技術を磨き、そこに「好き」である遊びをプラスする。


大きな壁を乗り越えたいなら、「壁貯金」をするといい。小さな目標を立て、それを達成してみる。小さな達成感が積み重なって、「自信のかけら」がいくつか集まったとき、大きな壁を突破できるようになる。
自信のかけらは、何だっていい。そのかけらを積み重ねると、モザイクができるでしょ。その模様が個性なんです。自分のスタイルと言ってもいい。それができると、生きるのが少しラクになりますよ。
http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/proron/0843/proron_0843.html?__m=1


この転換を、大恐慌だから可能になったリセットボタンといわず、なんという。
終わった。そうなってほしいね。大恐慌で。
というか、そう思える時点で、終わった。


よって、今後(どうということも「無い」)現実に適応すること「だけ」を、
適応することというか【我慢する】ことだけを、そんなことだけをしていると、
したいこと重心がずれるので、
ずれないように、ここに思うところを書いておく。


何でもいいんだ、【(小文字の)自分の希望】を追いかけて雪国
それがGoodLifeなんじゃ!


と、突如まさかの大仁田風に。
大仁田である。
もはや松岡修造ですらなく、大仁田というのが大恐慌ならではの。
ファイヤー !! (DVD付)


そうです、どこかの居場所に所属して、場の空気をよむ癖。
→周りが勝手にそう思って押し付ける役割に自分を無理矢理適応させる癖
そんな、ここまでの日々、是適応(我慢)でやりすごす【生きる術】は□□だね
※□□を埋める


時間も迫ってきた、昔やりたかったことはきちんと消化→牛歩戦術はやめる


特に、金持ち父さんのボードゲームを今更やる、
いずれ英語圏で暮らすぐらいのことはできるようにしておく
そのうちワンルームマンションを買う


ダンスは「俺が何を表現するか」という観点から、
・俺は少年隊へのオマージュとしてのダンス表現を
 特に、今こそ「バラードのように眠れ」を踊るそのあと、
 「君だけに」。役どころは東。JAZZをやるということ。
ムーンウォークを習う。POP。アニメーション。


将来の「愛着の持てる役割」のために今できることをやる、それがいいと思った。
自分の希望していないことはどうせ上手くやれない。それだけのことだ。



(P)

計画に力を与えるファクト

が必要。多少の上げ下げに動じずに、自分が信じたゴールに到着するまではポジションをホールドするために(勿論、システムに沿った損切は必要。つまらないと思った本は最後まで読まない、効率が悪いと思ったらより良い効率の良い方法に切り替える等)


計画を組立てるまでは良いが、それが仮説の域を出ない、無理なくと立てた計画ですら、生まれた瞬間から疑心暗鬼がつきまとう。仮説を信念に変える踏み込みが足りない*1。1行のヘッドラインのコピーが10行の説明文をカバーするように、ファクトが計画に力を与える。胸に不安がよぎるとき、自分の心を支えるファクトが必要。


自分が選択するオプションはファクトにより、最適な解であると裏付けられているのか?ここの踏み込みの甘さが何事に置いても、理想とする自分との決定的な違いの原因になっている気がする。「うまくいくのでは」という漠然とした気持ちの肌触りは、ポジティブマインドと言うよりも考え抜くことを放棄した怠惰に似ている。


どのようにやるか、ここが頭の使いどころで、徹底的に考え抜く。そうしないとやりたいことをやってるなんて言わないし、その積み重ねでやりたいことも出来なくなってしまう。


(K)

*1:踏み込むことを世間では「石にかじりついてでも」と言うのかもしれない

(゚Д゚) 無力な存在の役割に従事

役割、それは社会的生産活動を指す言葉のようにも思えますが、
集団内でのキャラ設定みたいなもの、人に頼る傾向、注目を集めたい、
傍観者的、付和雷同型、そういう性格のようなものも、集団内での役割と考えられる。
地元のさえないサークルではリーダー的存在で、繁華街での集団ではパシリ。

流動的で矛盾をかかえこまざるをえない自我。これをなるべく分裂させないで統合してアイデンティティを安定させようとするとき、現代人は、自分に振り分けられた役割あるいは選択した役割をアイデンティティの中心にすえることが多い。
だから、ある地位につくことによって自動的に集団や社会から期待される役割を人間がそのまま演じるという従来の役割理論の考え方――そしてこれは一般にも広く流通しているステレオタイプな役割観でもある――は一種の社会決定論であり、役割を運命として受け入れる存在として、また現実を変える力のない無力な存在として人間をとらえることになっている。
http://www.socius.jp/lec/09.html


自分の性格や、立ち位置と思っているもの、それは、外部の環境から独立したものではなく、
役割分担を学習して成立したものだ。
だから、次のような考察が出てくる。

なぜかいつもこうなってしまう・・・。
いつもこんな役回りばかり・・・。
いつも同じパターンで恋愛が終わる・・・。
同じような人間関係にハマッて悩んでばかりいる・・・。
そう思うことはありませんか?

それこそがあなたの生き方の癖。
幼少の頃、家庭の中で引きうけた「役割」がなせる業です。
さぁ、それはどんな「役割」?あなたはなぜその「役割」を担わなければならなかったか?
http://www.officet-hc.com/workshop/innerchild2.htm

あなたがまだ幼い頃、何らかの要因で傷付く体験をしたり、
「お父さんも、お母さんも、誰も私をわかってくれない・・・」と感じたり
「私は愛されていないんだ・・・」と解釈したり・・・
不安や怖れ・孤独感・無力感を感じ、緊張・萎縮してゆくと、
そんな自分を心の奥、潜在意識の中に閉じ込めてしまいます。
誰にも、 自分さえにも気付かれないままに・・・

無意識の内に異性に対して「好かれよう!愛されよう」と演じてしまう。
何故か「このままじゃいけないんじゃないか?」「こんな私じゃ良くないんじゃないか?」と感じてしまう。
自分でも気付かない内に「良い子」 「頑張る子」 「人に好かれる子」を演じてしまう。
http://sphere-project.com/5child.htm


そんな役割から抜け出すためには、見知らぬ外国にでも行けばいいのだろうかと。
そうすれば本当の自分とめぐり合えるのか。

ゴフマンはそうした本当の私などというのも、こうした役割からのずれでしかないと言います。
つまり積極的にこのような私こそ本当の自分なのだといえないということです。
本当の自分がどんなものかいえないのに、なお本当の自分がいると思うというのは、
結局、役割に対してのずれの感覚のせいであるというのです。このずれを役割距離とゴフマンは呼んでいます。
つまり役割に対して、ずれという距離感を感じるということです。


 では、その役割距離によって本当の自分を見いだせるのでしょうか。
ゴフマンは見いだせないと断言します。
そうした役割からのズレの中で見いだされた役割距離、つまり、本当の自分と思うものは、
実は、それ自体が役割との関係の中でしか見いだせないということなのです。
http://www6.plala.or.jp/swansong/0163000taikakusen.html


役割しか無いなら、もっと良い役割につくことだ。
それは転職とか、そういう社会的なものに表象されているが、
それを目に見えない領域での出来事として、
受動的に救助を待つ役割(被害者)の役割を返上することが考えられる。
一言で言えば、永遠の高校デビューだ。


(P)

修造

めちゃイケに出ていた。
心がけを示していたので、書き留めておく。


①限界をつくらない。最後はハートだけ。
②ミスしたとき、苦しいときこそ、ガッツポーズをする。


貴重なHackだ。
(P)