(゚Д゚) 無力な存在の役割に従事

役割、それは社会的生産活動を指す言葉のようにも思えますが、
集団内でのキャラ設定みたいなもの、人に頼る傾向、注目を集めたい、
傍観者的、付和雷同型、そういう性格のようなものも、集団内での役割と考えられる。
地元のさえないサークルではリーダー的存在で、繁華街での集団ではパシリ。

流動的で矛盾をかかえこまざるをえない自我。これをなるべく分裂させないで統合してアイデンティティを安定させようとするとき、現代人は、自分に振り分けられた役割あるいは選択した役割をアイデンティティの中心にすえることが多い。
だから、ある地位につくことによって自動的に集団や社会から期待される役割を人間がそのまま演じるという従来の役割理論の考え方――そしてこれは一般にも広く流通しているステレオタイプな役割観でもある――は一種の社会決定論であり、役割を運命として受け入れる存在として、また現実を変える力のない無力な存在として人間をとらえることになっている。
http://www.socius.jp/lec/09.html


自分の性格や、立ち位置と思っているもの、それは、外部の環境から独立したものではなく、
役割分担を学習して成立したものだ。
だから、次のような考察が出てくる。

なぜかいつもこうなってしまう・・・。
いつもこんな役回りばかり・・・。
いつも同じパターンで恋愛が終わる・・・。
同じような人間関係にハマッて悩んでばかりいる・・・。
そう思うことはありませんか?

それこそがあなたの生き方の癖。
幼少の頃、家庭の中で引きうけた「役割」がなせる業です。
さぁ、それはどんな「役割」?あなたはなぜその「役割」を担わなければならなかったか?
http://www.officet-hc.com/workshop/innerchild2.htm

あなたがまだ幼い頃、何らかの要因で傷付く体験をしたり、
「お父さんも、お母さんも、誰も私をわかってくれない・・・」と感じたり
「私は愛されていないんだ・・・」と解釈したり・・・
不安や怖れ・孤独感・無力感を感じ、緊張・萎縮してゆくと、
そんな自分を心の奥、潜在意識の中に閉じ込めてしまいます。
誰にも、 自分さえにも気付かれないままに・・・

無意識の内に異性に対して「好かれよう!愛されよう」と演じてしまう。
何故か「このままじゃいけないんじゃないか?」「こんな私じゃ良くないんじゃないか?」と感じてしまう。
自分でも気付かない内に「良い子」 「頑張る子」 「人に好かれる子」を演じてしまう。
http://sphere-project.com/5child.htm


そんな役割から抜け出すためには、見知らぬ外国にでも行けばいいのだろうかと。
そうすれば本当の自分とめぐり合えるのか。

ゴフマンはそうした本当の私などというのも、こうした役割からのずれでしかないと言います。
つまり積極的にこのような私こそ本当の自分なのだといえないということです。
本当の自分がどんなものかいえないのに、なお本当の自分がいると思うというのは、
結局、役割に対してのずれの感覚のせいであるというのです。このずれを役割距離とゴフマンは呼んでいます。
つまり役割に対して、ずれという距離感を感じるということです。


 では、その役割距離によって本当の自分を見いだせるのでしょうか。
ゴフマンは見いだせないと断言します。
そうした役割からのズレの中で見いだされた役割距離、つまり、本当の自分と思うものは、
実は、それ自体が役割との関係の中でしか見いだせないということなのです。
http://www6.plala.or.jp/swansong/0163000taikakusen.html


役割しか無いなら、もっと良い役割につくことだ。
それは転職とか、そういう社会的なものに表象されているが、
それを目に見えない領域での出来事として、
受動的に救助を待つ役割(被害者)の役割を返上することが考えられる。
一言で言えば、永遠の高校デビューだ。


(P)