自由時間を求めて

過程と結果の議論。
プロセスが楽しくないとだめだという話と
結果よければすべてよしという話と。


金もらっても詰まんない仕事は詰まんない、
という実感から、おれはプロセスが楽しくないとだめだと思う。
というのが、現在の見解。


幸せ、という地点があって、
そこを目指すことが目的意識ということもあるが、
幸せという地点があるかどうか。
それは、想像界のもので、
そこを目指す現実は苦しいだけで、
いざついてみたら想像と違うというのが世の常だ。
現実界想像界は違う。
概念に萌えることはできても、
生身の女子にはそう何度も興奮しないだろう。


昔より幸せ、だが、大半は不幸。
という人生は旅。おわりなき旅だ。
サッカーですら、すべてではない旅。
サッカーうまくても、ほかのことしたくなるんだ。
いわんや、サラリーマンおや。
自分探しに行くしかないなあ。


そのなかで、
それなりに、がんばれば、結果も返ってきます。
がんばらないなりにも、それなりの結果が返ってきます。
その結果が、幸せの現実的な姿です。


人生は、時間の流れではないのか。
流れていく、時間の大半が不幸で、
しかし、結果的に想像していた幸せは、
想像の中にしかないというような。
自分にとっての幸福は、
「今の」自分にとっての想像上の幸福じゃないかと。
それは、今は目的だが、そこについてしまうと、
もうそこでの停滞は停滞で。


なぜなのか、それはどこかに妥協があるからで、
幸せとしていることは本当は幸せでないのだが、
そんなことをいまさらいえない。
俺は与えられた環境では精一杯?ではないかもしれんが、
一生懸命やってきたが、それは無理をしている。

池田先生のブログ。

共産主義社会では、各人は排他的な活動領域というものをもたず、任意の諸部門で自分を磨くことができる。[・・・]朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく。(岩波文庫版、pp.66-7)


マルクスは「分業と私的所有は同じことの表現である」と規定し、自然発生的な分業を止揚することを共産主義の目標とした。この一節は、若きマルクスユートピア的な側面を示すものとして知られているが、実はこのモチーフは『資本論』にも受け継がれている。


自由の国は、必要や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。(『資本論』第3巻[大月書店版]p.1051)


これは資本主義社会を「必然の国」とし、未来社会を「自由の国」として描く有名な一節だが、このパラグラフの最後は「労働日の短縮こそは根本条件である」と結ばれる。従来のマルクス理解では、自由についての議論がなぜ労働時間の話で終わるのか、よくわからないが、先の『ドイツ・イデオロギー』の記述とあわせて考えると、その意味は明らかだ。マルクスにとって未来社会とは、必要(必然)に迫られて労働する社会ではなく、自由に活動する社会であり、共産主義の目的は「自由時間の拡大」(=労働時間の短縮)なのである。


分業でしかないことを通じて幸せを追っていると、
時間がなくなるのである。
勘違いだ。


過程というのは、時間の流れのことで、
俺は内的な時間の中で生きているのに、
大半の時間を外的なもののために犠牲にするというのは
間違っているのだと思った。


時間を返してほしい。
楽しかった思い出=プライスレス。


(P)