なにもない、本当に何もないようにしている
仕事=金のため生活のための完全物質的な物々交換。
ただ単に給料絡みでその組織にいる、
今生の生活資金があるなら、もう組織にいる意味は無し。
仕事自体に意味は無い。
だから、金が有るならやる意味が無いことをやる【貧困】。
しかし、金のせいにしてはいけないよ。金が悪いのではない。
貧困を、諦めという名の鎖を自分の中に育ててきたんだ。
それとは別の物事の一面に目を向けよう。
経済的なもの、それ以外に、
仕事は自分の人間的、精神的成長の経験だという軸。
経験を通じて、いずれは面白社長になるのだとでも言おうか。
あるいは、化け物になることもあろう。
そういう変化の過程の意識。
いつでも、安定性と成長性はトレードオフ。
成長性というのは、『どうなるかわからない』という状態。
いいことも悪いことも人生には起こりうるということで、
その後、起こりうる様々な展開を受け容れるということ。
小さな芽が、雪解けの土から顔を出し、花開くまで、
雨風に晒されて、苦しさの中に根を張り、逞しくなることもある。
どんな展開があるかはわからない。
けれど、安定から出ることで、なんかがある。
というか、なんかを起こすという姿勢・生き方すら必要。
ともすれば、なんもないより、
何かが起きるほうがいいんじゃないかという考えになる。
なんもない人生、それに慣れてしまい、
なんもなくしよう、恙無く暮らそうとしてしまう。
なんもないを【通常】とする考え方を変えて、
変化、【展開】、流転、自然の生成変化が起きるような状況を整備し、
毎日なんかがある、昨日とは違うなんかがある方がいいと考えることもできる。
展開を広げようとする姿勢、
自身が【構造的な貧困】の中で【学習】した【強迫観念】から抜け出して。
その姿勢を持つこと何かを産み出す際の基礎姿勢ではないか?
今のこの人生以外がある?
上手くいくかどうかではなく、【それ以外】を呼び込む素地はありますか?
時間の経過に伴って当たり前に起きる変化を恐れ・拒否して、
自分の中で時間を止めて、展開を拒み、何も考えるのをやめている。
しかし、時間は誰に対しても平等に過ぎていく。
変化を受け容れない無駄な抵抗。
鎖があるから、そうしている。
では何故、鎖があるのか?
それが何のためなのか、わからないなら、内心真に望んで、雨風の下に出てみないか。
そうしないとジリ貧。小役人には大金星は出ません。
未来に自分を晒して、可能性を育てる【雨風】。
自分の芽が出るように雨風を。人にもらおうとするんじゃなくて。
外に出す。かわいい子には外に出す。
やらない後悔>やって後悔、の法則もある。
どんなことでも、何事も無いよりは、とも思える。
よって、自分がいままで学習した処世術の類を、むしろ棄てるべきだ。
(P)