根本的な選択と幸福

いろいろ理由をつけて、物事に否定的にかかわる奴。
その理由を説明しているつもりだろうが、
その根本には否定したい精神とでもいうものがあるだけではないか。


物事を否定的に見れば、それは欠点はあるものだ。
問題は、そのように、否定的に見るバイアスがかかっているのに、
それを客観的な認識だと盲信するところにある。
否定される筋合いは、結局、認識する側の精神状態にその原因があるというだけのことなのに。


また、そういう奴は、自分自身にもその否定の精神を当てはめている。
何がしかあら探しをして、自分は不完全だと思うしかない。
これは不幸なことだ、としか言いようがない。
しかし、あら探しで欠点として論われたことは、責められるべき欠点なのだろうか。
責められるべきこと以前に、否定の精神が否定するものを探しているだけのような気がする。
わざわざ、悪いものを探してなかったら、悪いものは見えてこないはずだ。
じゃあなんでわざわざ、否定的なもの、悪いものを探すの?


欠点の克服は、仮に行われたとしても、マイナスを±0にするだけ。
失地を回復するだけ。何もプラスのことは生まない。
そして、ひとつの欠点を克服しても、否定の精神はそれが生存する限り否定できることをあら探しせざるを得ない。
よって、欠点を克服=改善しようとする努力は本質的に問題解決にならない。
問題は、否定の精神の存在にあるから。


このようなことがわかっていないせいで、多くのエネルギーが無駄になっている。
また、自己目的化した否定とその受け入れによって、毀損された尊厳もある。


改善の前に、現状の肯定=受容というものをきちんと教えなくてはいけません。
なんか焦り過ぎです。それが傷口を広げることも。
欠点(のようなもの)もあるのが普通。それを受け入れないで否定するのは、否定精神というバイアス。
全部を受け入れ、肯定したときにだけ、初めて欠けるところのないものが現れるのだから。
結局、肯定的なもの、完全なものを垣間見るためには、否定をやめるしかない。改善ではなくて。
いまここにあるものに目をむけ、深く受け入れ、それを育てたことがあるか?


否定しようとおもってしている以上、それは不幸になろうとする意思があるということでまず間違いない。
それだけのこと。それだけが問題。

善き意思や悪しき意志が世界を変えうるとすれば,それはただ世界の限界を変えるのであって,事実を変えることはできない.すなわち言語で表現できるものを変えることはできない.
そのとき世界は,意思によってまったく別の世界になる.いわば世界は,全体として減少したり増大したりするのである.
幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である. 


(P)