改めて
久しぶりに会話すると
「まだダンスやってるの?」「つづいてるね〜」とかいうヤツ。
まだ、とか、もう、とかそんな千利休みたいなこと以前に、
基本毎週行っているよ、なぜならキャスも言うように「B-BOYなので」。
それで徐々に動けるようになってきたわけ、この3年目。
3年という時間は魔力ある。石の上にも、とか言うだろ。
あれは、実証的な数字ですよ。
でもな、3年間ホント長いよ。トンネルだよ。いまもトンネルだが。
途中、なにやってんだとか思って、やめようかと思ったりしてたが、
「そこでやめるのは簡単」みたいなことになって、
「やらないで後悔よりやって後悔の方がいいじゃん」ということで今に至る。
苦しいときほど、自分の気持ちを確固として持たざるを得ない。
そうすることで、自分が思っていることをすごく考えるきっかけになりました。
状況が厳しく、その中で、悶絶し苦労することで、芽が出ない中、
自分の輪郭ができていくという経験は貴重だった。
そして、毎週毎週、芽が出てくるのをじっと待っている俺たち。
これは、すごく小さくて、まだ形にもなっていないような達成だけど、
自分にとってすごく貴重なものだ。
理由は簡単、誰に言われるわけでもなく
「自分でレールを敷いた」から。
「レール」は自分たちの半生をあらわすKey Word(例えばこれ)だけど、
自分で敷いてはじめて意味があるわけです。それがわかった。
たまに、あっちのレールの方がモテるかなとか、儲かるかなとか思って、
途中でレール乗り換えたり、ほかのレール探したりしてるけど、
自分で敷いてないレールは、人のレールである以上、どうにもしっくりこない。
原理原則から自分で作っていかないと、どこに着くかなんて分からないし、
他人のレールに乗っても、いつも優しいわけでもなく、
人任せな分、他人の言動に左右されて無闇に傷ついたりして。
そのうち何事に対しても常に他人事の態度のうすーい人間になって、
気がついたら引き返せなくなって。
行きたいところにつくためには、何年かかっても、
ほとんど回り道でも、自分で敷いたレールじゃないと、
かけがえの無いものにはならない。
他人にとっては珍奇に映るものでも、
自分にとってかけがえの無いものを残せないのは空しいと思う。
だから、やめないでいるわけ。*1
本当は、わかっているんだ。
なんでも勝手に始めちゃえばいいんだ、
で、続けちゃえばいいんだよ。
そういうわけで今週もレッスン。
久々のウォッシング・マシーン(?)的なやつをやった。
自分としても、「昔どっかでお会いしましたっけ…」的フレーズが
入ってくるのはうれしい。
いろいろ言ってきたが、
結局基本動作のパターンを身に着けることが必要で、
自分ができるパターンが少しずつ増えるという事実だけが、
このことをやっている/これからもやっていける証になる。
現場での動き、それがすべて。ほかは無い。
それがまたいいんだ。
机上の空論では人は充実できないんじゃないかって、
思うようになってきたんだ。*2
(P)