見上げれば未来

前回書いたこと↓↓↓について、各方面よりご指導をいただいたので、再検討する。

どういう明日が帰ってくればいいか、そのために今何をするか考えて。
未来の境遇を作るために、生きているという自覚もって。
どんな望ましい境遇を作るかを前向きに考えることが必要です。
が、ここで問題が。そもそも、望ましい境遇とはなんだろうか。
今俺が思ったのは、家の広さと夜景、持っている家具の豪華さ、金の多寡。
そういった、目に見える豊かさ。
しかし、外的条件が人を幸せにするとは限らない。
形あるものをイメージしても、幸せは手に入らない。幸せは形が無いから。
(前回提示した【課題】の②)


まず、前回からの続きとして、
兎に角、肩書き、高級外車等含め、
目に見えるモノを手に入れることを目標にするのは根本的に負けだと思う。
理由は、他人の反応を意識しているから。
目に見えるモノを手に入れれば、
自分は他人に価値があると見なされるかもしれないという期待で動いてる。
そうなると自分が実際にどういう人間であるかとか、
自分がそのモノに価値を見出しているのかどうかはどうでもよくなる。
で、それらを忘れるため、そういう現実逃避のために、
いつまでも外的なものを求め続ける羽目になることが目に見えている。
これはしんどい。
自分より他人の価値観を上に置いた時点で、間違いなく人生完敗だ。

日本人は意思、つまり内発性を失いつつあります。必死で動いてる人は、動いてるようにみえてるだけかもしれない。厳密にいえばロボットだという可能性が高い。
サイコガンダムさんが書き込んだレビュー

次に、外的なものは、時間が経てばその大切さが風化してしまう可能性が高い。
当たり前のことだが、外側のモノは自分ではない。
切り離そうと思えばいつでも切り離せるし、奪われることも大いにある。
仕事ですら、今の労働契約があるからといって、
その役割は他の人にも出来るから、
それが俺と本質的に関係があるものだとは言い切れない。
仕事で他人に認められるぐらいしか、居場所が無いから頑張ってるけど、
本当は自分に関係ないと思うことに、長い間強いこだわりを持つのはかなり難しい。

労働や消費による自己実現を目指すという行為が、お決まりの強迫観念のように機能していているのは、ポスト・フォーディズム体制が大衆に労働を強いているためと言えます。
世界平和という名のパズルを解く


そうなると自分に関係のあるものは何かと考えると、結局自分自身だけ。
肩書きも、財産も、他人も、流動性が高く、当てにならない。
が、自分自身だけは切り離せない。この流動性の無さが重宝される。


なお、他人を自分の上におくと、自分自身まで流動化してしまって収集がつかなくなる。
みんなが同じ事を言うわけではないので、渋谷はダブルバインドだらけになる。
だから、他人を上に置いた時点で、負けパターンにはまる。


そこで未来の幸せを考える際は、
「入れ替え不可能であるこの自分をどういう風にしていくのか望ましいか?」
という問いを考える以外にないということになる。
「何を獲得するか」という問いでは、途中でどうでもよくなるに決まってるのだ。


未来や目標を考えるといったときに、これまで、進路相談とかで、
何を手に入たいかとか、どういう環境に行きたいかということを言わされてきた。
しかし、それは、他人に相談して何がしかを判定してもらうために、
わかりやすい外的なモノを示しているわけで、
それ自体、自分の進路を他人にゆだねている時点で所詮、最初から負けてるのだが。
そういう経験があるため、
自分で未来や目標を考えるときにも、この規制を暗黙に踏襲し、
未来の目標として具体的事物を指名する必要があると思ってきたが、
そんな平坦な感動に興味は無い、退屈な時間は要らない。
第一、モノを獲得するのは、自分でなくても、誰かがやる。
それでは「自分の目標」を考えていることにならない。


そうではなく、未来の目標を考えるというのは、
自分がどういう性質を持った人間になるか決めるということじゃないかと。
端的には、どんな相対的な強み/弱みを顕在化させていくか、伸ばしていくかだ。
ほとんど、「純粋さ」とか「誠実さ」とか、
そういうかなり象徴的な記述で表現をする。
でも象徴的でいいじゃん。だって、幸せは(今のところ)形が無いのだから。
しかし、象徴的であるがゆえに、具体的な行動の基点となりうるんじゃないか。
電通鬼十則みたいなもんで。

今の若いやつらはすごく近いことか、すごく遠いことしか分からないと。自分の恋人との関係か、もしくは宇宙の破滅か、どちらかしか分からなくなっていて、中間がなくなっていると言うわけ。これは確かにそうだと思うんですね。で、それをどうしようかと本当に思います。つまりこれだと、ものを作れないわけですよ。ラカンの用語でいえば想像界現実界しかなくて、象徴界がないって話だから。物を作るとか喋るとかってのは、一般的に中間で行われるわけでしょう。
リトルモア7号(東浩紀)


ただし、最終的に目標とするのは、あくまで、振る舞いのレベルでの達成。
自分の習慣、ハビトゥス、身体的知性の獲得であるから
お題目としては象徴的でも、本質的に自分単独の目標である。
よって、他人に奪われたりすることも無い。
そもそも他人には全貌は決して見えないわけで。


そして、これを決めれば、原則、どのような境遇でも、未来に向かって生きていける。
例えば、俺は「野心的」というキーワードにしたが、これなら、
明日雨が降っても、会社がつぶれても、落ち込む必要は無い。
とにかく、何が起きても、野心的な振る舞いができればOKという便利さ。
労働にも消費にも、野心的に振舞う局面はあるだろうし、
生活のどこでも、環境等の外的要因による制約なく、
自分の性質を磨くという目標にコミット可能。
当然、自分が思う野心的を目指す以上、
他人目線を上に置くことはもはやできなくなる。


そしてここで重要なのは、「野心的」を強み選択するのならば、
一方で、「堅実さ」を捨てる=弱みを明確にするということに意識的であること。
当然、失敗は増えるだろうが、大事なのは一貫した方向性を示すようにすること。
それによって、複雑性が縮減されることが、大きな実りになると信じること。


そういうわけで、自分のどんな性質を磨いていくか、
これを決めることが未来を考えるには有効と思うが、いかがか。


ただ、難点として、性質さえ決まっていればよいということでは、
だったら、家に引きこもって野心的なことをネットに書き込むだけの生活をする
未来でもいいのかということになってしまう。
この時点で初めて、外的なモノを当面の目標とする必要が出る。
そこでは、その自分が磨こうとする性質を、
より早く開発し、十分に発揮出来そうな場へ行くことを目指こととなる。


なお、よく言われるように、
「自分がコントロールできるのは自分だけ」なので、
自分の性質についての目標を達成したからといって、
このアプローチによって、世間的成功が出来るかはわからない。
だが、早期に現実的な未来の方向性を持たなくてはならないという認識なので、
このようなアプローチとなった。


基本的に、世間的な成功を示す外的なモノが手に入れられるかどうかは、
自分が生み出せる付加価値の量=技能開発の量にかかっているわけで、
その辺はどれだけ「ねばりづよく努力する能力」があるかという問題なので、
別途検討したい。


(P)