回帰するプロセス

人にいい事をしたらいいことが帰ってくると、
そう本気で信じていれば、いい態度をとるのだろうが、
やはり他人を信じていないから、適当な受け答えをして、
その後自分が避けられるという結果に。


他人は自分を映す鏡。自分の振る舞いが他人の振る舞いになる。
つまり、俺たちは鏡に囲まれている。完全にループしている。
不信が、不信を呼ぶ。これもループ。


良くしてもらうには、自分が他人によくするしかないと。
しかし、ひとにやさしくとは言っても、
ペイフォワードはかなり難しい。
努力が無駄になったりすることへの不信感もある。


この、「未来への信頼」、それに基づく「ねばりづよく努力する能力」が
あるないかで、かなり行動変わってくるね。
それは生育環境とか家庭の事情とかで決まってしまったりもするんだろうけど。


逆に、ルールという原則を無視して、近視眼的に
個別の人間や出来事が信頼できるかどうかを問題にするとかなりきつい。
そもそも、報いがいつ帰ってくるかもわからないのだから。
裏切られることも多々あって、基本的な信頼がないと打ちひしがれてしまう。
しかし、総体として、統計処理をすれば、
やはり因果応報なのだということを信じるしかあるまい。


未来に、なんか果実を得たければ、帰ってくるように
いま自分がそれをしておけというだけことなんだが。
言われなくてもわかってるんだが。
信じ切れてない。
他人様が、その普遍的表象としての神様が、見ていてくれているのか、どうか。
(これって、このことによって、神に見捨てられているということだ)


「今日はつまらなかった」というよりも、
「明日どうなってたいんか」を考えて振る舞いを変えるだけだ。
でも、そういわれると、どうなってたいのかわからんかったりする。


結局、不甲斐ないことに、マイナスをゼロにすることばかりを考える癖がある。
顕在的に、足りないことを認識したものだけを求めている。
多くの場合、人と比べて、とか、コンプレックスの裏返しとか。
もっと、前向きに自分が求めていることが何なのか、考えていない。


明日の事なんか考えたくも無い、
とにかくいやなことだけ忘れたいと思っている。
この近視眼的、感情的な生き方は、未来を作らない。
忘れたいと思ってとった行動の結果が、将来帰ってきても、
それが本望であるはずが無い。
よりいっそう、抜け出したいという思いだけが募る。


で、抜け出したいという思いに任せて行動するが、
それが未来を作ってしまうという悪循環。
感情なんか抑えないで、やりたいことをやればいい。
それはそのとおりだけど、怖いのは、それが帰ってくるということ。
で、そんなマイナスのループを何十年も繰り返すと、
マイナスだけが積み重なるので、
もはや、どこにも前向きなものは無いですね。


今すぐに未来からの逃避をやめるしかないんだよ、
やめたところからまたスタートするしかないんだよ。
それはそうなんだよ。
で、どういう明日が帰ってくればいいか、そのために今何をするか考えて。
未来の境遇を作るために、生きているという自覚もって。
どんな望ましい境遇を作るかを前向きに考えることが必要です。
が、ここで問題が。


そもそも、望ましい境遇とはなんだろうか。
今俺が思ったのは、家の広さと夜景、持っている家具の豪華さ、金の多寡。
そういった、目に見える豊かさ。


しかし、外的条件が人を幸せにするとは限らない。
形あるものをイメージしても、幸せは手に入らない。
幸せは形が無いから。


では、形の無いものを考えるには?
幸せを知らない人間にとって、それを考えることは困難だ。
味わったこと無いんだから。
目に見えるものであれば、それが手に入るよう祈ることが出来るのだが、
それがいくらあったところで、幸せはやってこないわけで。
考えることができなければ、当然実現することも無い。


まだまだ、自分を知らないということでしょうか。
他人の導くままに、人の尺度に従ってきたからな。


【課題】
①他人(その普遍的表象としての神)を信じる。
②目に見えない部分も含めた、幸せのイメージを考える
③そのイメージが帰ってくるよう自分の一貫したスタイルを作る
④日々の振る舞いをひたすら続ける


これらについての検討はまた後日。
いい夢を。


(P)