帰属意識がもてません!

チームワークが大事、そういわれ続けてきた。
レフトはレフトを守り、2番はバントをする、リベロは拾う、
各自与えられた役割がある。


仕事でも一人ではできないことを成し遂げるために、
チームワークは必要であるが、
俺はフリーライダーになっているようで、いやな気持ちになる。

フリーライダー」とは,相応しい貢献をすることなく、
全体からの利益を受け取る人をさす。


何が「相応しい」を決めるのかという問題は主観的なので、
いつもすっきりしない不全感がついて回るのは当然か。
仕事でも、人に指導してもらいながらやっていって、
結局俺どれだけ貢献したのか不明、みたいなことは多い。
周りに誰もできる人がいなくて、
しょうがないから自分で始めたりするほうが、
後々自分のため(っていうのは、一体なんだ?)になったりするとも思うが。


まあしかし、しかしだよ。
日本に生まれたから、貧困や戦乱に巻き込まれないで済んでいる。
高度成長期の核家族のサラリーマン世帯に生まれたから、
最低限の健康かつ文化的な生活が当たり前のようにそこにあった。
と、いうような幸運が続いていることも、
すべて相応しい貢献をすることなく、
全体からの利益を受け取ることになるといえばなるわけだ。


役割はある機能になりきるわけなので、
全人格、生命を賭けるというイメージとは遠い。
人間性が疎外されているみたいな。
たとえば↓

何で番長が、こんなことさせられているんだと。
これは、野球の神様に対する冒涜じゃないのかと。
そういう感覚。
清原なら、もっと豪快にブンブン振り回していいと思わないか?


それと同じことで、自分も一から会社立ち上げて、
新しいビジネスをするとか、
自分の獲物を自分で狩って、それを食って生活とかをしない限り
不全感は残るんだ、にんげんだもの

にんげんだもの

にんげんだもの


仕事の結果というもののうち、
その何割が会社の看板のおかげなのか、
立ち止まって考えてみると、
自分はKind of「フリーライダー」だと思うし、
その分給料が、売り上げからこのぐらいの割合という、
のれん代控除」も現に存在しているわけで。
集団や組織に属することは、ローリスク・ローリターンという知恵だ。


時代も変わってきていて、みんなが「身の丈」起業のすすめ (講談社現代新書)を受けて、
自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)とかいうことになると、
なんかそういうローリスク・ローリターンという知恵が、
実はレフトしか守れない人間、バントしかできない人間になることで、
いろんな可能性や自分らしさを非可逆的な形で捨てることで成立する
一種の感情労働すら伴う割に合わないものに見えてくる。
ただの便利屋。全人格を賭けて何かをするのが人間じゃないのかねと。


よく、退職したら誰からも連絡が来なくなって自殺する人の話とか聞く。
チームワークは、そのときは楽しいけど希望がない。
レフトしか守れないで(一生、マウンドに立てないで)、
高校生の娘とも会話がないかわいそうな人生というイメージ。
それは、ことさら、やる気がないわけでも、能力が劣るわけでもない人であっても、
同じ組織に属する人に頼って、何とかしてもらおうとしてきたことのなのか。


ベンチャー起業家も大人気だが、
特にインテリジェンスやリクルート出身の人は口をすっぱくして、
個人としての実績にこだわっておられる。
特に、営業という部分。営業は狩猟に近い。
起業なんかは全人格をかけているイメージがある。
俺は経験したことがないからわからないが、
一人でいくつもの役割をこなしているだけかもしれない。


結局、裸で何かをする経験をしていないと思っている。
それを「通過儀礼」として考えている。
でも、いつも、一緒に行く誰かを探している。
それは弱さなのか、知恵なのかわからないけど、
このままだと、太平洋をヨットで渡った人とかに一生勝てない気がする。
勝つ必要はないが、見えているものが少ないのは勿体無い。



常人の見えないものを見るこれが、セレブ、と締め括ろうと思ったが、
戸塚ヨットスクール的な思想になってきてるみたいなので、今日はもうやめる。


たぶん、自分の中にある依存心を許せない瞬間は誰にでもあるはずで、
それは瞬間的に潔癖症の病になっているだけだと考えるのがいいのだろう。
それが誠実な態度であるなどとは、夢にも思ってはならないのだけれども。


(パイン)