バリューセットにバーガーあるのにポテトが無いようなものだ

状況とか相手に応じて、出方や気持ちが変わってしまうのは、自分の弱さなんだ。
本当は、相手や状況がどうあろうと、現状で「常に最善を尽くして戦う」しかない、
考えるべきは「そのために次に自分はどうすべきか」のみでいいはずなんだ。


いままでなんか苦しんで、それなりに対処してきて、やった気になっているけど。
そろそろ認識を改めないといけないのは、
自発的にやったこと、とやらざるをえなくてやったこと、というのは結果がおなじ、
やったということであっても全くジャンルの違うことであるということ。


会議とかでも、①質問されて発言するのと、②自分から議論を建てて発言すること、
もし仮に同じ内容を発言したとしても、その2つのことは、
意味合いとして全く完全に違う行いであると認識しないといけない。


どんなに有益な発言内容だとしても、①は、もし質問してもらえないのならゼロだった。
価値を自発的に生むことが出来ない。
同様に、仕事ができるとか、あいつはいい仕事する、責任感あるとか言うけれど、
仕事を与えられなかったらゼロでしかない「あいつ」は、価値を生んでいるといえるのか???


自分で始めていくことは、それと違って周囲の受け入れ態勢をつくるところから、
そのことをやる意味づけを自分の中に確立し、自分を律して動き始めるところからを、
タスク内容としている。そして、そこの部分は最終的に見えにくいところだから、忘れがちだが、
とても骨の折れるところで、一種のインフラの部分として最重要だったりする。


自分からはじめること自体が見えないスキル分野。
状況とかそういうものに左右されているのは2流。
やばいからそろそろやる、とか、人がやっているからやる、
とか他律的な姿勢で来た人にとって、それは今までとは違う領域。


バリューは、いい考えの中にだけあるのではなく、
それをどのような経緯で、周囲に浸透させていくか、
どの程度自発的な姿勢で生み出されたバリューなのか、
というところも、非常に大事。
そこの部分も、最初からタスクリストに、いれておけ。

ダンスによって得たものとして、反復練習の尊さ、自己表現の重要性、他者=仲間との分かち合いの経験の貴重さ等々、多くのポイントがあるが、中でも特に最近2人で議論しはっきりしてきたこととして、物事を必死で一生懸命やらないことのデメリットがある。
以前も書いた通り、そこそこの頑張りでそこそこの結果を出すことが、俺の半生だったが、これはまあそこそこで困ることはないし、負けてもそんなに悔しくないという部分で、大きなリスクヘッジ効果を有しているものの、逆に言えばヘッジの機能以外何も無いという事への気づき。
頑張らないでモテる方法を何回ジョナサンで議論しただろう。しかし、モテたいなら、正面から頑張ればいいのではないか、というかそれの何がいけないのかということで議論が終了してしまった。そして、そこで明らかになったのは、一生懸命やらないことのデメリット、即ち全力で物事をやらない癖がつき、自分を律することができなくなるという、取り返しの付かない悪影響だった。
つまり、一生懸命やらないと人間性が傷つく。結局この癖は暗黙の逃避的弱腰であり、では何で逃避するかと言うと、自分が負けるかもしれない不確実性の不安に向き合う精神力の養成を怠り続けるからである。気持ちの弱さを放置し、それが放置されることで増殖し、自分自身が勝負一般に対して清清しい気持ちはおろか、勝負に向き合う気概すらない弱い人間だという自己評価を定着してしまうデメリット。つまり、自尊心を失っていいのかという問題なんだ。
それに比べたら、他人に一時的に負けることなど、本当に暫定的なものなのだ。自分に対するレッテルは無意識にこびりつき、生涯の呪いとなるのだから。


(P)