頼りになるのはポエムだけだから

所詮、きりが無いから、不満をあげつらっても仕方ないんさ。
だから、以下の仮説を提唱したい。


どんだけ食べても、まだ食べたい-まだ食べたいって言うからね。
ハートが今日も過食症、感情なんて完全に失調。
あふれ出る不満、とめどない欠乏に付き合ってられるます?


これは、イコール、
何があっても、どこに行っても幸せになれないことがありうるということ。


しかし、物事が幸せさを決定できないということは、逆に考えることもできるのではないか?


つまり、何も無くても、どこにも行かなくても、幸せになることができる可能性があるんではないか。


そして、ここで、ではどう解決するかと思ったりして、隘路に入ってはいけないの。
解決するというハッピーエンドがある明確な線引きとしてあると思うのは、
人生ゼロクリア願望、つまり「●●からの自由」の域内の考え方。
肥満の解決と同じ。解決はおそらく、漸進的。そして、「事後的に見出されるに過ぎない」。
つまり、「●●への自由」に切り替えろ!いますぐ!


これはもう、単に、自分がいかに、
「何も無くても、どこにも行かなくても、幸せになることができる」ことを信じているかを、
表現することで、自分を信じさせるしかないと思う。
畢竟何をするのか?といえば、何もしなくてもいいのだが、認識を整体するために、
俺は歌いたい。そして叫びたい。尾崎豊療法。


ゆえに、もはや、何事も分析したり、検討したりする以上に、
単純な理想や憧れ、バカみたいにシンプルなことをギラギラ訴えていくことにした。
三者としてではなく、第二者となることが大事。
そうおもったら、この立場に立ったら誰でもそうだろうけど、
結局頼りになるのは、情景ポエムだけと言う結論に達した。

ギンギンギラギラ


俺はイケイケ一直線


何も考えないというか正確に言えば何も先のことの心配とかはしない


欲しいものに突進する イノシシのように


手に入れるぜ そのためには万の努力をする


しかし先のことを予想なんてしない その間に走る


あの子の住む 町へ


こういうことばに閉じ込められた、ある闇雲に前向きな状態を、
四六時中自分に言い聞かせて、脳裏にこの言葉が想起させる能天気さの味わいをしみこませて、
ふと、自分が無意識でも、頭の中にこういうギンギンギラギラ感覚が、
あふれていたとき、それが、勝利のとき。


そのとき、何も無くても、どこにも行かなくても、幸せになることができるはず。


(P)