不満をやめることについて

普段から、なにを手にいれても、成し遂げても、
まだ足りない、欠乏感とまだ自分は不十分で不満足と思い、
自分に足りない部分、至らないところを探しまわっている。
こないだ、偶然にその囚われに気づいたわけだ。
やってもやっても、満足感がないのなら、
できるだけ、手間をかけないで、労力少なくしたい。
がんばらないことをがんばる姿勢。


あるいは、どうせ自分は不満なことや、欠乏感にとらわれているから、
もはやがんばることもしたくない。無理だから、満足なんて諦めている。
やったところで、どうせ疲れて、最終的に不満足になるなら、がんばって損したと思う。
仮に失敗したら相当落ち込む。
うまくいっても+10ぐらい、失敗したら-100ぐらい痛めつけられる。
うまくいく確率五分五分なら、期待値はマイナスだ。だから、基本何もしたくない。
もし仮にやるとしても、勝算無いことはやりたくないという損得勘定がはたらく。


結局、なにをしても、何を手に入れても、
どっちにしろ不満足で結果がマイナスになるような、
ある心のシステムが出来上がっているわけです。
何を手に入れても、達成しても、満足しない心の状態が。


だから、いろいろな問題がある中で解決策は、
これ以上何かを手に入れたり、達成することではないわけです。がんばることではない。
自分の外側に何があっても、受け止め方が歪んでしまっている以上、同じことになる。


そして、解決策が何なのかは、まったく分からないが、分かっていることは、
何らかの形で、心のシステムをデバグし、チューニングし、姿勢をただして
今のこのあり方を矯正してしまえば、
何も手に入れずとも、何も達成せずとも、平穏な満ち足りた心の状態が実現すること。


今と同じものを見て、同じものを食べてるだけでも、すげえ幸せなはずだ。
それでいいんだと思う。というか、それしかないんだが、どうしたものか。
受け止め方を変えることはできるのだろうか。

O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

Reinhold Niebuhr


(追記)
今ダンス行ってきた。
桃子ヲタ張りに出し切った。
そのテンション上がった目線で追記。


結局、こういう上記「問題」をこねくり回しているうちは、
問題と共生するという態度だからね、共犯だよ。
問題について、悩むことで、問題に時間と労力を費やし問題を養ってるのは誰?


逆に、問題が解決してしまったら?そうしたら、どうするんだ?
やることが無くて困るのではないか?
問題があるから時間を費やすことがあるし、日々カイゼンの灯をともすこともできる。
それが生きがいになっている=問題に依存している。


問題に関わらなくなったときに、何をするんだ?
もっと真剣に、社会貢献や社交活動をするのか?
問題について悩むことに費やすと同じぐらいの、
人生のエネルギーの埋め合わせの向け先が無かったら、
問題がなくなっては困りますね、という部分が無いか??


解決しようとする労力も大事だけど、
じつは解決しようとするという形でも問題に関わる必要は無いのでは?
そうでない、異なった状態を作り出すことのほうが先では?
結局、問題に関わる必要もないし、
未来のことをあれこれ予想して心配する必要もないんじゃないの。
それでいいんじゃないの。
これ以上何かを手に入れたり、達成することではないわけです。
がんばることではない。

【杞憂(きゆう)】あれこれ無用の心配をすること。
出典:列子(天瑞)
春秋時代、 杞 ( き ) の国に、「天が落ち、地が崩れて身の置き所がなくなるかもしれない。」と心配して夜も眠ることができなかった者がいたことから、無用の心配を杞人の憂い、すなわち杞憂と言った。


(P)