やる気を出すためのToDo2つ

第一四半期は順調に終わろうとしている。
試行錯誤の末、地ならしができたと思う。環境は整備された、という認識だ。


今や、週末の金、土、日それぞれ、踊ろうとさえおもえば、舞台は用意されている状態。
さらに、DVD*1を自主練の完コピ教材とすることで、平日にだって精進可能。
お膳立てというか、仕組みづくりというか。
レールを自力で敷いたわけで、この辺やはりプランニングを生業とする我々の底力みせれたかと。
後は、本当に自分達が日々この仕組みを活用するかどうかにかかってきている。


とはいえ、「自分がやるかどうか」、これが難しいところだよね。
これまで、言い訳を繰り返してきたわけだし。
そこで、第二四半期に向けて、一応前もって対策を立て、
今後の取り組みテーマをTo Doに落とし込んでおきたい。

  • やる気を殺ぐ、「一生懸命やって何になるんだ」という言い訳を論破する

この罠に俺はよく嵌る。
以前から、かなり自分の中の重要テーマとして格闘しているテーマだ。(参照
実利に突き動かされているものは、結局すべてダメかもしれないリスクがあるから。
「いまはつらいけどがんばろう。」ということは多いけど、
これは「結果が出れば報われるから」ということが背景にある。


しかし、それはプロセスを無意味と考える意識にも通じている。
結果が出なければ、いまのつらさが、ただのつらい無意味な思い出に終わってしまうわけだから。
そして、無意味になる予感があれば、プロセスを充実させることから逃げ腰になる。
「やっても無駄になるかもしれないから、やらない」これは一面では正しい。


このように、未来の結果がすべての意味づけを決めるわけです。
今の価値は、未来(の結果)から現在を見た中でしか出てこないわけです。
つまり、未来が過去・現在を作る(意味構成する)わけだ。


しかし、当然今のところ未来がどうなるのかはわからない。
そうなると、全ての物事の意味は
未来に対してその人が持っている信念の反映でしかないということになる。
よって、「やっても無駄になるかもしれないから、やらない」と同じく、
「やったら楽しいかもしれないから、やる」というのもまた正しいわけだ。


結局、ある物事を無意味と思うのは、将来失敗するかもしれない、
あるいは、やっても無駄になるかもしれないという信念*2が自分にあるからなのだ。
物事あるいは自己に対する疑心暗鬼の評価、期待の体系が、
物事の今の目の前のものに対する「無駄」という考えを導くわけです。


だから、「やっても無駄になるかもしれないから、やらない」という奴は、
本人の中では、当然正しいんだが、
無駄になるかもしれない、という悲観的な見通しに蝕まれていることに自覚的である必要がある。
そうしないと、何でやる気がでないのか、わからない。
悲観的な見通しを前提にすると、「やらない」という選択肢は正しい。
どこも間違っていない。しかし、なにもやらないまま死んでいくことになりかねない。

“You experience what you believe, unless you believe you won’t, in which case you don’t, which means you did.”
貴方は自分が信じている事を体験して仕舞うのだ。自分はそんな事は体験しない、と信じている場合は例外だが。若しも、其の信じている事を体験しない場合は、「既に、もう、其れを体験済みだ」と言う事である。

ここにおいて、イメージトレーニングの重要性が明確になる。
なんとかして「やったら楽しいかもしれないから、やる」に持っていかなくてはならないからだ。
やったら楽しかったという未来の感覚、それを確実にするには、イメトレしかない。
未来に成功する体験を先取りすることは魔術だ。
それによって、因果関係をコントロールできる。
今目の前にあることに対して始めて、ポジティブな感覚を持つことができるようになる。
というか、今目の前のものをやることに必然性を感じるにはそれしかない。
そして必然性がある選択を続けることが自己評価を高めていく、
それが次なる未来の期待を高める、という正のフィードバックを生むのだと思う。


そういうわけで結論としてはイメトレというか、妄想。
脳だけでなく、心も鍛えないといけない。
大好きなあの子に、フルーツを上げるとかさ、そういう中期的な成功イメージを作っていこう。

  • (愛情も含めた)感情表現を強化する

次に、実際のダンスを行うにあたって、重点的に推進したいのは、意味づけの多様化である。
ダンスが上手くなったかどうか、だけにこだわると、
上達が踊り場状態に差し掛かった段階でやる気がそがれる恐れがあるためだ。
つまり、イメージトレーニングで、想定する未来の結果が、
「誰が見ても本当に非の打ち所の無いスキルの獲得」とかだけだと、しんどいのだ。


喜びの源泉が、余りにも修行系というか、達成系になっていて、
敷居が高すぎて、支えきれない形骸化したものになってしまいかねない。
当然、高い目標はいいのだが、それだけになってはいないか?
もっとダンスにまつわる目標が立てられるのではないか。


たとえば、ダンス特有の他者との一体感。
それを紡ぎあげていくときにだって、喜びはあると思う。
感情を分かち合うことができる気がするから。
そういう感情面、コミュニケーションの部分だったり、
人にどう見られるかだったり、そういうところを強化していくこと。


融通性、独自過ぎない独自性の表現、そういったものもテーマに入れていけば、
それが、実生活への構えとして還流していくかもしれない。
そういった多様な要素を追い求めたっていいじゃない。


上達の実感は毎日毎日得られるものではない、
しかし、それだけを求める必要があるわけでは無い。
多様化された価値や意味の分だけ豊かな時間を手に入れ、
さまざまなレベルでの達成、よろこびの分かち合いを実践することで、
益々楽しさが膨張していくと確信している。


(P)

*1:マージョラムが出てる

*2:もっといえば、自主的に状況(外界)をコントロールできるかどうかについての信念。それがないと、成功失敗を自分の行動が左右すると思うことが出来ない。どんなにがんばっても、親に褒められなかった女子がメンヘル系になってやられまくる、的な帰結が具体例。何をしても、結局他人にダメ出しされるとか、認められないとか思ってしまうのだ。そうやって、いつも受身で、被害者意識丸出しでいる人間にとっては、ちょっとやそっと何かをしたところで、状況に翻弄されるという予測からくる無力感を脱することは出来ない場合も有るよね。