Be Colorful

物心付いて以降、いつもなんかいいことないか(子猫チャン)と思ってきた。
空から降ってくればいいのに。


何の努力もしないのに、いい事が起こる僥倖?恩寵?を想い、祈り続け、
結果、勝手に裏切られた気持ちでいっぱいです。


結局、能動的にいいことを起こすためのプロセスがなかった。
宝くじ当選や、一目ぼれされる以外に、自分として打つ手がなかった。
ああ無力感。


必然、諦めの気分は増進され、少なくとも負け組みに入らないことが目標となった。
人並みの人生は確保したいということで、基本、長いものに巻かれる感じが続く。
肩書きや、資産価値。そういうものに頼ってきた。
それを幸せだと思い込むことが出来そうでできない。


そこには何の実質もない。単なる否定形の語法があるだけ。
負けないために、下手を打たないために、蔑まれないために。
マイナスをプラスマイナスゼロにすることがとりあえずの目標。
積極的にプラスの前向きな意志のベクトルはどこにもありません。


しかし、ダンスをしたのである。
これはダンスでなくてもよいが、ダンスを自発的にした。
自発的に物事をしてみたことがほとんどなかった。
しかもそれを続けた。
自発的に、個人的な価値観に基づいて。


そんな種をまきはじめて、早3年がたつ。
今年は、少しばかりの収穫が出てきた。
本当にちっぽけなもので、お見せできるようなものではない。
しかし、これは正真正銘、自分が種を蒔いてそだてたささやかな喜び。


パラダイムが若干変わった。
自分で、種を蒔き、時間をかけて育てることで、喜びを生み出せるとなれば、
ハンドルは自分が持っていることになる。
行きたいところに行けるかもしれない。


幸せというのは明日が今日より良くなると信じられる予感のようなものだと思う。
種がが育っていくこと、大きくなって現実の中で姿を見せていく期待が持てることを幸せと思います。
なにも、肩書きや資産という自分以外のものに頼らずとも、
そういった自分の価値観に基づいた行動によって、明日を楽しみにする=幸せを感じることが出来るかもしれない。


最初は種を蒔くところからだから、時間はかかるかもしれないけど。
でも、その時間をかけるプロセスが心地よいものだとしたらどうだろう?
人からもらうだけの、自分の本質でないものならば、手っ取り早く、
労力かけずに獲得するのが一番要領がいいし、
そもそも、自発性がない中でそんなに多大な努力なんて出来ない。
だから空から降ってくれば一番いいに違いない。


でも、本当に大事にすべき幸せの種は、空からではなく自分の中から生まれてくるんだ。
そんな産みの苦しみは、自分にしか味わえないオンリーワンの感覚かもしれない。
それを通じて、やっと、人生は他人事ではなくなるのかもしれない。
その生きている感覚自体が喜びとなり、希望となるのかもしれない。


(P)