今年のTakeAway⇒目は心の窓

自分の感情や、内面を表現することを放棄している傾向があって、
そんなあいつはToo Shy Shy Boyと評されてきた。


自発的な表現を断念する背景として、レールを敷かれ、無理強いに自分に合わないイメージを押し付けられ、
大きな抵抗感と無力さに苛まれた幼少期があるかもしれない。
親や他人に合わせることを義務としてやっている部分と、内なる自分が分裂している。


本当は、内なる自分を他人に表現し、開かれた自己を社会に存在させるべきなのだが、
それは、えらく骨の折れる、どうせ無理なことだという意識があるので、
他人とのやりとりは「こうすればいい人になる」「こうすれば出世する」というマニュアルの反復に近い。
すべては損得になっている。
進学もそう、就職もそう、そのうち自分がなんでこういう生活をやってるのか自分でわからなくなって。
自分のこと、何を話してもうそになる。すべては日々の泡。ギャグにするしかなくなる。


元来、生存に必要なもの、水や空気等は損得で考えられるものではなく、
なくてはならないもの。諦めると死んでしまう。
面白いことに、他人との心の交流というものも、なくてはならないものなんだけども、損得ベースで諦めている。
これが意味することとしては、内面が非常に死んでいる可能性が高いということです。
でも毎日、死んでいないと嘘をつくしかないわけです。


Hate Tell A Lie


自分がここにいる感じをもてない。他人事である。たまたま演じる役割=実のない仮面でしかない。
そういう意識がずーっとあるわけです。
しかも、もうそれについて悩むこともやめている状態。


あらゆることの動機付けが損得というか義務感なので、「成り行きでそうなった」「仮そめの現象」と捕らえている。
自分の本質や内面があるとして、それは社会のどこにも存在できないという諦念。「仕方ないよ。」
そういう複雑な状況のなかでやってきたわけだが、むなしさが定期的に急にやってきて、
ふと悲しくなることもしばしば。小室ファミリーとの自覚を持った10代。
これはいかんと思ったわけだ。


簡単な解決はできない話であるが、このような問題系が存在すること自体に無自覚だった。
気づかされたのは、今年。ダンスを通じてであるという話。


10月ぐらいに先生にダンスとは単なる振り付けなのではなく、
ゴールはあくまで(感情)表現にあるといわれた。
見ている人に何を伝えられるかが重要なのだと。
当然、自分もなにかを伝えられて、ダンスを始めてしまったのだと思うのだ。


とはいえ、これは困難を極めた。
喜怒哀楽の表現を抑えることがこれまでの自分の生存のための慣習であったからだ。


ブレイクスルーは、一緒にステージに立つ人々の言葉。
「ダンス中、こっちの目を見てない」「自分の世界に入り込んでたらチームを組んでる意味ない」等。
ホストの世界でも、もっとも重要なのはアイコンタクト。「目は心の窓。」
まず、近くにいる人に笑いかけてみようとした。
かなり難しかった。
ぎこちない動き、力みすぎて、隣の女子からは「ちょっと近いんだけど・・・若干離れてくれる?」とのクレームも。


12月入ってからも「踊ってて楽しくないのか?」といわれる。
楽しくないのではない。楽しさを表現できないんだ。
といっても、ほかの人には理解できないだろうな。
しかし、自分が自分の感情を見ないようにしてきたのも事実。
感情を見ないようにすることで、それをわかってもらえない悲しみを感じないように自分をしつけたのだろう。
すごく子供のコロからそうしている気がする。その時点では生存のための知恵だったのだろう。
まず、自分がたのしいのかどうか、自覚することから始めよう、何を考えているのか把握してみようと思ったのだった。
そして、このころから、他人との感情的な潜在面での無意識のシンクロが地下水脈のように、
自分でも気づかないところで出来上がってきていたのだった。


目は心の窓、ついに直近先週末のダンスのときに、
アイコンタクトで「楽しい」「最高」「ピース」というメッセージをあの娘と交わした。
それは、ある種自分の内面であろうと思います。
口で表現することはまだ出来ないけど、出てた。
「いい顔してたよ。」という意見。


白黒の義務感の生活が、若干カラーになるような感じ。
感情の彩りが、人生に加わる感触。
損得だけの社会的な役割よりも、他人の中に自分自身の感情が存在するということは、
生きる実感がどんだけ深いかということ。
それはなんかに忠義立てする義務ではなく、自分そのものに近いのではないか。
空しくないと思った。
空しくないと実感できる経験をしたことがなかったので、不思議な気分だった。
みんなに自発的に話しかけた。


3ヶ月、ハッパかけられたり、他人にもっと表現して来いバッチ来いとあおられて、
そういう受け入れ態勢を敷いて(強いて)もらったから、やっと最後の最後に、
決意してやらなくちゃいかんとなったのだと思う。それぐらいの体制の転換転覆である。
しかし、顔は引きつっていたと思う。
輝きに一歩近づいた。しかし、本当に一歩でしかないわけだ。


このへん、うまく言語化していないところもあるが、それはおいおい。
とはいえ、結果としてはダンスを通じて、また大切なものを習得した。
・自己表現
・他者との無意識での一体化、つながり(共生)
生きるうえで、水や空気と同じぐらい大事なもの。
それがないと実質的に死んでいるに等しいのだと、気づいた奇跡。
ありがとう。ピース。


(P)