出口?

現実的な問題として、個別の事象で成功することがあっても、それで簡単に根本的な認識が変わるかということ。
いってみれば、今日のゲームに勝ったからといって、トータルで負けていることに変わりないのではという疑念。。
3点取ったが1000点取られている。あきらめるしかないという気分。
あきらめないことは肝心だが。


たとえば、ずーっとモテなかった人に恋人ができる。
うれしい。が、離別の予感に苛まれ、苦しの中に生きることになるとしたら。
これはいいことなのか悪いことなのか、別にしても、
結局自分自身が喪失することを予感してしまう状態にいる以上、
目の前の現実の恋人がいるという現実はもはや信じることはできない。


難関国家資格を取得したという某。それは「それだけのこと」と笑う。
努力した部分については、それはそれに対してやったことがテストに出たから出来た。
しかし、もともとその国家試験を受けない人間も世の中にはいっぱいいて、
もっと受ける人間が多い可能性だってあったはずで、その場合、自分は取得できなかっただろう、と語る。
だから、「本質的に自分が優れているわけではない」これは謙虚なのか、ネガティブなのか。
日々合コンを続け、「No コンパ No ライフ」を標榜するカラテカ入江氏は
どんだけ合コンして、肉体関係も含めた人間関係を造っても口癖が「寂しい・・・」であるという事実。


どんな事象や努力によっても、根本的な認識の改善に届かないという自体の常態化。
こういったこととも向き合わなくてはならない。
その場合に漂う、ある諦めの色彩。
そして自分にとって望ましい状況には、個別具体的な現実の努力では辿り着けないのではないかという思いは加速。
恋人といても、どうあがいてもいつか喪失してしまうという恐れは深まる。


こうして、夢を持ちましょう、向上心を持ちましょうという場合に、
個別の成功体験風のことをいくら積み重ねても、
それが最終的な恩寵に続いていくのかどうか?の疑念が出てきます。
問題は、自分で自分を許せるかどうかを実は自分であらかじめ知ることができないので大変難しい状況になってしまうこと。
日々の行いが自分にとっていいのかどうか、基準がわからないので判断ができないためです。


実利的な結果だけ視野に入れ、目に見える損得に流されやすいのはそういう背景がありますが、
それが一層事態の混乱に拍車をかけることとなります。
種をまかずに実を手に入れようという、
魚の釣り方より魚を求める近視眼思考を選択する時点で心の平安に辿り着くこととは相反する選択をしているので。


自分自身の内側の問題を、自分の外側の事象を通じて変容させていくことが求められているのであるが、
そのことと、自分自身の内側の欠落を自分の外側のモノで埋めようとすることが混同され、意味不明の状況になっている。


たとえて言えば、
飛び立つために、足場となる強固な土台が必要なのだが、
そこに穴が開いている。
だからまず、穴を埋めようと思って、あちこちから埋め合わせを焦って持ってくる。
しかし、穴は一向にうまらない。
それだけでなく、実は底なし沼のようになっていて。
足がどんどん沈んでいく。
そんなイメージ。
焦る気持ちはあるが、脱出のためには、
船を作る、浮力に任せる、等々の知恵が必要となるのでしょう。


(P)