見えないものが見えるころ

見えないものの代表として、感情がある。
ずいぶん前に、しんどい時期があって、感情はなんの役に立つか、と考えた挙句、
これを無くそうとした。無くそうというよりか、ないことにするという感覚。


その結果、大概のことにはつらくもない、気にならない。
ドラえもんブッセ食ったまま眠って虫歯でも、気にならない。
あと、特に世間を前にして、表情を出さない。
これは、守りを固めているというよりも、自分をいないことにするという技でR。


そうこうした後、夜中、覚えていないんだけど、
眠ってるときに大爆笑をしているらしい。ずいぶん前から。
眠りについて2時間後ぐらいに、自分で30分ぐらい自作自演の歌とMCをかまして、自分で大爆笑。
1年分ぐらい笑ってるらしいよ。


これはどこかがくるっているのだと思ったのだった。
で、そういうのを本で調べたりするのが好きなので、
調べると、完全に抑圧ですし、昼間の亡霊が夜現れているという結論が導き出された。
そういった、とりあえずの結論化の技、済んだことにする技術=終了による割りきりで、
すべてを言語の中に閉じ込め、皮肉・冷笑・諦念で彩ることを続けているのだ。
ただし、ときに多角化のために前向きなことも、時々言ったりするが。これも言語的なものである。

アドラーは子どもの頃からクル病を患い体が弱かったのです。でも、体が弱かったからこそ、劣等性をそして劣等感を自己決定によって克服する心理学を打ち立てました。劣等感は私たちがより良く生きていくための原動力であり、劣等コンプレックスにまで悪化してしまうと挫折のもとにもなってしまうものです。
http://yukiduke.jp/Adler__Alfred/

感情のない状態というのは抑うつですよね。
これそのとおりだと思うんだけど。
劣等感を無いことにすると、挫折や不毛が。
喜怒哀楽がわからない人ねという言われ方もして参りました。
シャウトが足りないので、当然ツイストも足りない。
そういうことで、結局、「傷つかない分、楽しくもない」状況であった。
すべてが他人事で、損得でしか物事を見ないのは、ハングリー精神からではなく、本当にそれ以外、形に見えないモノを見る目がないので御免。


そんな中で、ダンスを始めて、「アドレナリン出るから楽しい」みたいな事を言ってきた。
でもそれもその場単発になっていて、平日なんかは7割5分仏頂面で決めている。
身に染みてないわけである。


喜怒哀楽の、楽だけを土日に感じているが、これは楽だけあって、Easy Come Easy Go。
粘りが足りない。
粘りのある感情というのは、この四つの中だったら、哀なんだが。
哀を受け止めることが、出来なくなっている。
そのため、見えないものが増えている。
感情の伴わない言葉が出てくるものの、身に染みない。

一例。自分の感情も見えないわけなので、当然他人への気遣いが困難。
思いやりは、想像力や感づく力ですから。
見えないものを見るどころか、見えるものすら見ていない。
喜怒哀楽を感じてないということにしているのがどうにも抜けない。


帰国子女が好きという話もしてきた。
帰国子女のあの存在感というのは、感情表現の豊かさであり、
内部の感情をダイレクトにぶつけてくる感覚が大変濃密で、
そこに「生の息吹」を見てコーフンしているわけである。こちらが勝手に。
生命力ベースですから。帰国子女なら、ジャングルでもGoですから。
当然帰国子女だって、よく笑うけど、いつも楽しいだけじゃない。
感情表現が豊かな人はよく泣くし、怒るから。
そして、情熱みたいなものがある気がする。


そして、ついに今年の抱負として、拙者が玉川大師に挙げたのは、
①悪夢を見ない
②情熱を持つ
③メタボリックにさよなら、であった。
でもさ、情熱は感情の領域の話のような気がするし、悪夢は抑圧から来るわけだし。
何より、豊かな感情表現や生命力にあこがれているのだよね。
ダンスが好き、帰国子女が好き、藤本美貴が好き、状況証拠は十分だ。


・・・そうであれば、話は早い。
「実践家の仕事術」としては、2〜3日中に、折り返し悔しくて悲しくて泣こうと思っている。


見えないものを見るシリーズ、まずはご自分の中の見えないものを見てみて。
オチるところまでオチる。そして甦る感情、走り出す人生。「あいつ、熱いよね」と言われたり。
うざ目に電話連絡網で、特に目的もない既婚男7割ぐらいの飲み会とかを開催する。
「久しぶりに集まろうよ」、サラリと言える。
そこに、Whyはない。人が好き、愛情と労働もしくは、愛情に基づく労働。
ウザ目でも、幹事ご苦労さん、ぐらいの扱いはある、あるんだ。


そういう人に私はなりたい。


(P)