代表入りをめざして
株式投資の奥義は、言うまでもなく、損切りであるが、
人生においても過去の思い出や、
自分の持ってるガラクタを手放すことができる、
そのことの重要性。
先日もそれについては軽く触れたが、
再読してみてこれは大きな学びがあった。
ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門 (小学館文庫)
- 作者: カレン・キングストン,田村明子
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2002/04
- メディア: 文庫
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肝ととなる哲学を一言で言うと、
必要なものは必要なときに手に入るという、
自分の運命に対する強い楽観的な確信につきる。
自分の持ち物に興味がなくなるのは、
そこから得られるものをすべて学んだ、取り込んだから。
運命は新しい出逢いを用意してくれている。
(↑ここを信じれるかどうかは、自己評価の問題だろう)
そうしたら、次に進むために、捨てることが必須となる。
いつまでも、行動パターンを変えない人がいる。
宗派を変えただけで、いつも宗教にはまっているという感じ。
失敗から、成功から、経験から学ばないと、未来はない。
今まで幸せでなかったのに、それでもなお、過去にすがろうとする、等。
それは、いわば、減損していないだけで、不良資産が山のようにたまっている、
自分の時価がゼロ、マイナスになっている感じ。
かたくなに、昔とった杵柄=簿価にこだわるのは、運命に対する不信。
未来に希望をもてない人間の、現在価値は、そりゃゼロだ*1わ。
古い本を保管し続けることの問題は、人生に新しいアイディアや考え方が入ってこなくなることです。
蔵書は、持ち主のアイディアや信念を象徴しています。
古い本が大量に本棚を占領していると、人は段々と新しいことにチャレンジしなくなり、周りの本と同じようにカビ臭いエネルギーを発するようになってしまうのです。
・・・せめて本棚に少し隙間を作ることで、人生に新しい興味や人間関係が入り込んでくるようになるでしょう。
散らかった部屋、新しいモノが入るキャパがない部屋は、自分の象徴と考える。
本質的に自分に必要のないものは、ゴミだ。
他人から押し込まれて、深く考えずに抱え込んでいるものたちも。
机の上が整理されているのは、頭の中が整理されていること。
整理された頭には、ビジョンと展望が描けます。
何より、他人の価値観で押し付けられたものでいっぱいだから、
自負心が芽生える余地がないという病状でした。
今の自分にとって、必要なものは、過去のそれとは違うわけですが、
自負心がないため、ゴミと真珠の区別もつかず、
今まで不幸だったとか言いながら、同じ行動パターン。
物理的に、捨てることでまず、自分を取り戻します。
で、自分にいま必要なものだけ残す。
モノの価値は、通常、減価・減損して当然であって、
どんなに大事なものでも、いや一時的に大事だと思われてたものほど、
価値が減る、廃棄対象となるのが宇宙の法則。
んで、モノではない、過去ではない、他人のものではない世界になれること。
それは、必然性の世界。
この必然性を、意思、自負心、意地、気概、勇気、ビジョン、
何と呼んでもいいが、自分というものを立ち上げていく感覚です。
今これをやらずしてという必然の意識。
それは、すべては今というプロセスでしかないという意識。
どれだけ充実してるか、質重視の、アドレナリンメインの感覚。
自分の頭動かしてるかどうか、
外からはわかんないから誰も指摘しないからって、
サルみたいに同じこと繰り返してる思考停止があった。
これは、今まで言われたとおり、ちんたらやってた奴らに、
自分で考えて、走るという近代個人としての振る舞いへの進化(啓蒙?)
を要請するオシム日本代表のサッカーとパラダイム的に相似。
なんでもいいから、自分の意思、責任感に慣れていくこと。
そのプロセスはこんな感じ。
慣れたら、無意識に、それが広がっていくんじゃないかと。
週末から、平日へ、あるいは、郊外から都心へ。
ドーパミンがセトロニンを駆逐していき、
ブルースは加速していく。
で、今の自分には、官と財、の問題が残った。
組織で偉くなりたいのか、金持ちになりたいのか、どっちなんだと。
詳しくは、
昔は、間違いなく、金持ちになって社会とかかわりを持たないリタイアにあこがれていた。
責任を負わないことを自由と思っていました。
口癖は「大家になりたい。」
しかし、今は金があったからといって、
そういう野放図をやるのはもったいないと思うようになった、
うまくいえないが、金があったとしても、
充実した時間、自分の意思で何かに取り組み、学ぶ時間を持つ方がいいと思うようになってきています。
なんなんでしょう。一体。
これはパラダイムシフトで、
今までは絶対的な自由、去勢されない状態への憧憬を反映して、
誰からも何も言われない、
他と関わらなくても良い状態を仮想的なゴールとしていた。
不自然な前提だが、
銘文化されていないため、
無意識的にその母胎回帰のイメージが温存されていた。
それが、このたび何の因果か、
ゴールがあるのではないというところに一歩進んだ。
結構これが、一番捨てられなかったガラクタなんじゃないかと思う。
このガラクタがあったら、自負心なんて育つスペースはないよ。
捨てて捨てて、最後の方にのこったガラクタだ。
人に認められたい、庇護されたいとかっていうのも、
おそらくこの辺の非合理性と同根だから。
で、ひとたび捨ててしまったら、もう走るしかないということになる。
で、何より明日以降、というか一分後の世界で、
自分がどうするといいのか、走りながら、考えるようになる。
オシム監督にとってはあたりまえの世界なのかもしれんが。
近代個人への道のり半ばである。
(P)