キッズリターン・リターンズ

本日我々は、カムイジンギスカン定食(¥900)を食いながら、
昨年度、何を残せたのか、何を失ったのかに思いを馳せた。
結論としては、何をするにも、目的:着地点を明確にすること。
魔法のランプはあるのに、願い事がないなんてね。これが根本的なことであろう。
もちろんどうせやるなら、ダンスだってなんだって、うまくいきたい。
でも、それを念じ続けているか、そこまでのことかどうかはその前段で曖昧にされているかもしれない。


改革の必要性は、これまでも声高に唱えられてきたが、
いよいよもって、目標が欠けており、本当にこのままでは続ける意味がない。
これは重い言葉だ。運動したいだけのダイエット気分ではないはず、本当にうまくなりたいのだという。


ルーティンができないのはなぜか。
①スピードに慣れていないこと。
②型ができていないこと。
③根本的に練習量が少ないこと。
があげられた。質の向上のためには、やはり、量をこなすこと。
練習方法も含めて、自分で努力するしかない。
まずは、レッスン内容をスピードよく反復できるように、練習をすればいいのではないか。そういうわけで、がんばろうと。


そして本日、家での練習で学んだことを以下に記す。
まず、振りを知っていること(インプットの完了)は、踊れることとは何の関係もない。
よって、音楽にあわせたときにそのリズムに沿って振りを出す練習をしないと、一通り振りを知っていても踊れることにはならない。ペースに追いつけなくなるから。
よって、常に音楽をかけて練習をしないと、いつまでたっても踊ることは厳しい。リズムに合わせていること、振りを特定の順番でやることを組み合わせないといけないから。
次に、リズムであるが、今日のトゥインクル先生の振りを練習して気づいたことは、
1,2番目の8小節は8ビートの振りであるが、3番目から16ビートに変わっている。
これに気づかないと、途中から、振りがついていかなくなる。また、途中でビートを変えることに慣れる必要がある。
最後に、周りに人がいないところである程度練習をしないといけないことを痛感した。これはDVDすら見ないことを意味している。
最初、音楽にあわせて、単純にダウン、アップをするところから自力でやらないと、リズムが取れるようにならないと思われる。
また、振りを自分だけで意識してやることが、脳内の身体へのイメージ・感覚を増強するのだと思う。まず、他人を見ないで、自律的にある程度動けるようにならないと、経験上教室で周りを見ながらやってしまうと、絶対に音楽に遅れ、ついていけなくなる。自分で動きをイメージして、その通り動けるようになる。鏡を見てもいいが、目をつぶってもできるようになるのが到達点ではないか。
ダンスはその本質としては、筋肉よりも脳をを鍛えるものだということだ。

本日は以上三点の気づきがありました。
ちなみに、1時間やったが、完全には出来上がっていない。
5日×1時間でちょうど完成、で次週のスクールというサイクルでちょうどよいと思われます。


結局、教室でルーティンができないのは、音楽、そのリズムに脳の処理能力がおいていかれているから。音楽にあわせることを怠ってはダンスにならないということだ。
音楽にこちらからあわせて踊らないといけない、それは(まだ)不自由である。
が、不自由な制約と寄り添うことで、リズムを肉体化し、あるべき美が調和が生まれる。
自分のペースでやったものは、実は仮構のモデル理論上のものに過ぎない。
だから、当然ながら音楽にあわせて初めてダンスはダンスなんだ。
似合うこと、調和すること、それが喜びであり物事を極めることなんじゃないか。
何かに寄り添うこと、そして一体となること、その調和を目指しているのです。
調和にいたるまで、それは制約に見えるかもしれない。
が、それは、自分の存在と、他なるものとの齟齬であるから、不自由は自分固有のものである。
自分固有の不自由の解消は、自分固有のやり方でやることになるだろう。
調和へのプロセス、固有の不自由との軋轢が、固有の自分をつくり、人との違いを生むといえる。


本年度も、昨年と同じく、2人で自転車をこぎながらの帰り道にこんな会話をした。
「一年おわっちゃったな、イマイチ成果がみえないな」
「いや、まだ何もはじまっていないさ」
今年も、Never Too Lateは終わらない。


(P)