欲しいものを手に入れるための方法

物事の対処法には人それぞれ、自分のやり方があるわけだけど、
そのパターンは結構限定されていて、
特定のやり方に縛られている、と思う。
特に、欲しいものへのアプローチ。
押すことしかできない人、相手の出方を待つことしかできない人、
駄々をこねる、泣く、キレる、、、等々。
歳とっても、その辺のパターンって結構変わらないんじゃないかと思う。


その辺のスキルって交渉力と言うか、人間力として相当大事なものだけど、
言いたいくせに言えないとか、
(自分の欲求を率直に表現して)相手に自分の欲求が分かるのがハズいとか、
自分のパターンに合わないやり方は、もう心理的な抵抗感が先に立ってしまって、
なかなか習得できず、いつも同じ決め球ばっかりだから、同じところで躓いたり。


さて、自分はどうかという話。
先日考察したように、「一番欲しいものは得られない」⇒他人を自分が動かすことは無理、
という固定観念が自分の中にあるため、
「好きな気持ちが相手にばれるのはマズイ」ということから出発している。


そうなると、間接的に、相手が自分に構ってくるように仕向ける作戦を立てる。
それが、ムエタイだったり、出世だったり、貯金だったり、
ダンスを通じたモテと言うのもその一種。
しかし、それは誰でも考えること。しかも、時間がかかる。


そこで、俺のパターン。それは、不幸話。同情を買おうとする。
これは、子供のころとか、近所の先輩とかにボコられたときに、
割と親とか女子とか後輩にはやさしくされたという「成功(?)体験」あるからなのか。
自分が特別扱いされるチャンスなんて、あるとしたら、
それぐらいされて、なんぼだ、と思っている可能性が強い。
そして冷静に考えてみるとその結果、理不尽なことが、定期的に身に降りかかることを、
生きていくために必要としてしているんじゃないかと。


そのために、通常はやる気ない態度、気を抜いて、ガム噛んで、なんとなく、
すごく遠まわしに、誰かの何らかの敵意を挑発しているのかもしれない。
潜在的に悪意があるんだろうね、こっちにも。
身に覚えが「ある程度」あるってことにしておかないと、不幸を受け容れられないからね。
この「ある程度」がポイントで、確信犯だと、身から出た錆で、同情は買えない。


「楽して生きたい」が口癖なのも、結局、それなりにやってても、
特に欲しいものが得られるわけでもないから、やる意味なくて、
突発的な不幸が起きたときに、ある程度同情を変える程度の水準を保ちたいという感じで。


まあ、結局、自分が欲しいものを手に入れられるとしたら、
そういうパターンしかない、と強く学習してしまっているということだ。


ひどい目にはあわなくてはいけない。そうしないと何も得ることができない。
これが俺の前提。
だとすると、次のテーマは、
ひどい目にあったときに、その被害をどれだけ食い止めるか、ぐらいしかない。
これってイコール、話題の『リスクヘッジ』だろう。


つまり、生きていくうえでのパターンが、欲しいものがあるときに、
① 諦める
② 欲しいもののために、ひどい目にあう
しかない。という事実。
なんてこったい。


なお、俺は、今日、夢でこのことを告げられました。
守護霊やー*1


(P)

*1:で、どうしたらいいのか、それはまだ考えられない。もう一回寝ようかな。