「モテ」という言葉に込めたおれの願い

モテは、結果。初対面から始まって、そこから何がしかのプロセスを経て、実現するはずのもの。
そこで大事なのは、何をもってモテの手ごたえとするか。喜びとするか。なにを望んでいるのかということ。


どういう状態のときがモテたと喜べる状態なのか、その定義が重要で、
いったい、現実がどういう形からどういう形になることが自分にとってうれしいのかということで、
原則として物語には始まりがあって、そこから紆余曲折を経てハッピー・エンドになるはずなのだ。
どんなエンドを望んでいるのか。


言い換えれば、自分の言動や意識的な立ち振る舞いと全く関係ない結果が出ること、
たとえば、僥倖で、見ず知らずの身に覚えの無い女子から告られる。それで、それだけで、いいのかということ。


結局、再現性が全く無いわけだ。僥倖には。
再現性が無いというのは、つまり、未来に期待できないということだ。
モテる、というときに過去の僥倖を指すわけではなかろう。
むしろ、今後能動的に、モテる結果の出る状況を創ることができることを指すのではないかと。


で、あれば、再現性つまり、一定の結果の出るメカニズムや、新しいシチュエーションにも適応できる応用力がモテの本質か。
結局、未来にもっと期待したいという心の叫びである。
「ある望ましい状況を一定の確度で再現できるようになりたい。」という思いを、モテという言葉に込めている。


極端なことをいえば、その再現能力をほしい気持ちに比べたら、現実の結果自体はそんなにはいらないということになる。
だから、モテ≠性欲なのである。これは、重要なことだ。


そう考えると、目に見えるモノはそれほど大事ではない、ということになりはしないか。
そのモノを獲得する悪戦苦闘の中で、自分の中に蓄積された、一定の再現性を持った応用力=適応能力に本質が宿っている。
だとすれば、どうかんがえても、結果よりも、悪戦苦闘を求めるべきなのだ。


ここにおいて、大きな落とし穴を見出すことができる。
結果しか見ていない、目にみえるものだけを追いかけると、なるべく悪戦苦闘しないほうが良い、ということになる。
結果に向けた効率性が重要になるから。


しかし、本当にほしいものは悪戦苦闘をつうじた能力の蓄積である以上、そのアプローチはそもそも間違っている。
そして、それだけでなく、悪戦苦闘が足りないために、目に見える結果すら出せない、
いやたまに僥倖でうまくいくことはあるかもしれないけど、それを再現することができない。
それの意味するところは、未来に期待が持てない、ということ。で、これが閉塞感の正体。
モテはそういう状況のブレイクスルー願望を、日常生活レベルのキーワードに落としたものだ。


先日の議論にひきつけて言えば、
自分が相手のことを好きだということを相手に知られたくないというのは、
上記のような期待が持てない心理状況ゆえに、知られたところでどうしたらいいのかお手上げ、ということだろう。
結局、この期待の持てなさ、適応力の低さ、お手上げ感を何とかしたいですね。ということ。
今日は、かなり、話が具体的になっているだろ。


ここにおいて、モテの意味が変わってくることを宣言したい。
なにか状況を好転させるための、具体的な実践力。つまり「引き出し」なんだよ。「技のデパート」化が求められている。
そして、それを獲得するための悪戦苦闘。技の裏には反復練習があるということである。


結果や、損得を考えているうちは、何一つ物事は解決されていかない。それは幻影を見ているから。
目に見えるものは、ある再現性ある能力を一瞬証明する材料にはなるかもしれないが、それ自体が未来への期待を形成することは無い。
つまり、目に見えるもの自体では幸せにはなれない。


そうではなく、再現性の獲得を第一義に据え、理解し、研究し、検証し、型をつくり、それを試すことを継続する悪戦苦闘。
その結果として、日々の個別の出来事への一喜一憂を超えた、ある高み=認識への到達。
具体的には、反復練習を通じた、引き出しの量的充実、その先にある自己評価の質的変容。
そういう、科学者的な、求道者的な、スタイル=パーソナリティの獲得。
もっと、未来に期待を持っていきていきたいだろ。それが幸せというものだ。
カネや肩書きという保証は過去の僥倖かもしれない。だったら、幸せになるための本質を握るしかないんだ。
日々のノイズに踊らされたくないのだ。
そのために、根本的な、認識の転回が必要なのだ。

あなたはクリエイティブではありません。

いつも外側に何か良いものはないかと意識を向けています。

内側に目を向け、今あなたができることを深く見つめて、

それらを生かそうとしない限り、決して創造性はやってきません。

自分を深めることなくして根が生まれることはないのです。

自分自身から逃げていては、本当の意味での創造的なことは決して起こりません。


(P)