練習するといいよ

石の上にも3年の1/3が過ぎつつあるが、
ルーティンの理解度・消化度が高まっている。


これは、レッスン後の「夜練」と称する、
環七・駒沢通り交差点近辺の団地の麓の公園での自主トレでの振り付けの確認および、
平日夜のミックステープ(主にMaki The Magic/Pear
を使っての音楽とのペース合わせにより、
ある程度の振りのパターンが
自分の引き出しとして活用可能な資産となったからだ。


新規のルーティンでもそのパーツパーツは、
過去に習得した資産での対応が可能となり、
全くの新規の部分についてのみ脳を集中的に使うことで、
一通りの流れに辛うじてながらついていけるようになってきた。


積み重ねとは、実は効率化のことで、
できるようになればなるほど、習熟は加速していき、
その音が響き渡れば、ブルースは加速していく。
そして、この資産がまさに資産である由縁は、
どれだけ活用しても、失われることのない資産であるという点。
肩書きのような、一時的なものではない、My Own Thang.


一度、資産のストックが始まると嬉しくて、
ついついスーパーのレジ待ちの列で、電車のホームで、
ステップ(ファンキーブロードウェー等)を踏んでしまうが、
これがまた、能力≒脳力の強化になったりする。


楽しい。


駅のホームでゴルフスイングのフォームをしているひとは、
きっとこういう修練の楽しさの中にいるのだろう。


レッスン中でも、音にあってきていること、
そして、音を通じて、他人と同じ動きをしていることが気持ちいい。
個人と個人の間にある壁を、乗り越えているような、
集団的祝祭感覚による酔陶状態の顕現。
それでなくとも、リズムに合わせてのステップを繰り返すだけで、
パブロフドッグ的に脳内麻薬は出ているから、
テンションは最高潮ななかで、
他人との壁、意識の防衛機制が解除される用意は整っているのだ。
祝祭の興奮の輪の一部になりきることが、もう少しでできるに違いない。


こういう、本当に肉感的現実的な気持ちよさ、
生命の爆発の瞬間を意識し、そのための道筋を歩いているという実感は、
それ自体が希望と呼べるものである。
目指すものが、自分にとって曖昧ではなく、
強い輪郭を持った実感としてイメージできる。
ナポレオンヒル的願望達成の要諦である強いイメージは、
これぐらいの脳内麻薬を伴って初めて結晶するのだと思う。


他人との一体感は、言葉のレベルでなく、
潜在意識レベルでの通底ともよべるもので、
シュールレアリストでなくとも、
これは大いなる歓喜というかテンションのとめどない激流。


この体験を深化=進化させ、
人類はひとつであると実感してしまうほどまでに一体感を強烈なものとすることで、
人生への取り組み姿勢の意識改革につながる良薬が誕生するのではないかと期待している。
具体的には、音楽という媒介が日常生活にはないが、
他人と通底した意思を持って、
同じ感覚で各々が動くことは気持ちいいのではないかという仮説。
それが、チームプレーというものが、世の中で重宝される理由なのか。
そのほうが、すばらしい体験ができるからなのか。
その辺が、わからないでここまできた。


ある本に、「真に重要な人が生きる上での態度を明らかにする4つの質問」
というのが載っていた。
内容は、以下の4つ。

  • 私は自分が幸せになるためだけに、この世に生きているのか。それとも人を幸せにするために生きているのか。
  • 私は奪うためにこの世に生きているのか。それとも与えるために生きているのか。
  • 私は楽をしたいから、いい目を見たいから、この世に生きているのか。それとも成長するために生きているのか。
  • 私が求めているものは、束の間の一時的な価値しかないものか。それとも永遠に価値のあるものか。


どうしても、自分がいい目を見ようとか、楽をしようとしがちだ。
が、そのような意識は、個を全体の調和と切り離す以上、
大いなるものとの繋がりが失われる。
個の意識を超える繋がりの体験は、
計算された損得よりも絶大で強烈な感激・高揚・歓喜を精神に刻印し、
その傷跡が、良性のトラウマ≒成功体験として、
精神面での自律的なエネルギーの源泉、発電機械となる可能性が高い。
自分から出発しても、なんとなく、
性欲・食欲・睡眠欲のとぐろに巻き込まれ、
結果衣食住及び性的関心の確保自体が目的となりがちだ。
つまり、「生きるために生きる」状態。
そして、そこから「生きるための賃労働」が
人生の大半になるのはそう遠くない。


幸せは、他人が運んでくるという噂は本当か?
特定の他人という意味ではなく、
自分とは他のもの一般という大いなるものとの繋がり。
となると、日常のつながり方を問い直す必要も出てくるだろう。
仕事においても、
将来の自分のキャリアアップとかいうのが、
一体どこからでてくる願望なのかわからないが、
その原動力は、生活上の切迫感、
どうせ仕事するなら他人に小突き回されて生きるのは惨めだとの思い
というものがメインであり、
かなりネガティブなモチベーションで、
繋がりなどどこにも意識したことはない。


資本主義社会は分業社会で、
各人各様の役割分担の遂行によって、
進歩していくという大きな物語があるのは知っているけれど、
それを繋がりの媒介のBGMとして捕らえることはできないでいる。
結果、そこには内燃の原動力がない。
他力、プレッシャー等にせきたてられる他律による運動。監獄の誕生に帰結する。


しかし、じゃあ日常生活でも、
どこかのDJに音楽をかけてくれと頼むのは、
結局他律的な運動になる。
やはり、リズムは自分で刻むこと、
それが他人のリズムと共鳴する瞬間を待つことが手がかりとなるだろう。
一億層ヒューマンビートボックス化。
繋がるために単純な、チューニング、
「顧客のニーズを把握する」=「自分に期待されていることをわかる」ことから、
始めましょうと。
そういう営業努力が、
大いなるものに向けたステップになれば、
日常生活にも喜びが生まれるのだろうか。


少なくとも、生きるための賃労働を差し当たり乗り越えるには、
他人に自分が期待されるための、
技能・引き出し・経験といった資産を増やすことが重要で、
ある程度の資産が運用できるようになることで、
すこしばかり希望を感じることもあるかもしれないが、
それはあくまでも仮説にすぎない。
とはいえ、精進を続け、
「世のため人のため」という言い方では得られない力を得たいと思う。
繋がる相手が、若いギャルじゃなくて、
脂ぎった権威主義のサラリーマンでも、
そこに喜びがあるかもしれないではないか。


(P)