金以外の理由

他人の俺に抱くイメージや評価、それは誰のものか。
俺のものであろうか。


仕事を通じて、○○な人と思われる。
社会とつながる方法は、いまのところ仕事が最有力。
そこで培われた他人のイメージが日々増殖する。
どういう人でありたいかという部分。
これを客観的現実化していくために、社会との接点が必要という理解。
そういう意味で、仕事をやらされ感でやる、
金のためにやるというのは、本質と異なる気がしてきた。


サラリーマンは、基本部品という意味でスペシャリストでしかない一方で、
ホリエモンみたいな経営者が良いとかなんとか。
が、これは正確には対立していないのではないか。


軸が違う問題として、仕事を通じて獲得していくものとして、
①自分の経済的な所有、と②イメージ的な所有があるわけだ。


①の所有というのは、つまり株を持っている者(所有=継続的、不可侵)と、
持っていない者(契約=限定的、相対的)との差を生む。
ホリエモンへの憧憬はほぼ①にすぎない。
なぜなら、ホリエモンが実際何やってんのかしらないし、
知ってる範囲では、別にそれはステキではないという感覚だし。


で、一方で②の部分。
これは、どういう人間になりたいかという価値観。


①と②は全然関係ないものなのだが、
職業選択に当たって、混同してしまう要素たちである。
そうすると、ホリエモンみたいになりたいなどと、
ありえない言明をしかねないが、それはコンランの産物だ。
(ちなみに、ホリエモンが逮捕される前を前提としております)


金を稼ぐという意味では、別にデイトレードで儲けて、しまえばいい。
そのうえでも、どのような人でありたいか、という問題は残る。
どのような人でありたいかということすら、
経済的自由になるまではわからないのだろうか。
社会に何を残したいか、自分がどうありたいか、すら。


金持ちになるには、金持ちになる理由がいる。
それは金を持った次の部分、
自分がどうありたいかという部分への目覚めのことだろう。


逆にどうありたいか、それを決めておけば、
自分がどれぐらい金を持たないといけない人間なのかが理解できるだろう。


今日はここまでだが、このテーマについては今後も考えていく。

(P)