言われたことだけ やってる YOU KNOW?

例えばダンスレッスンで、天才は常に全身が駆動・機能している。
腰と足が中心の振りつけでも、
その中で実は胸も首も動かして、全身で表現している。


しかし、天才といえど、生徒に教えるときは言葉に頼らざるおえないため、
メインの部分である「腰と、足を動かせ」と言うしかない。
限られた時間の中で、
全身の各部位全部の個別の動きを記述することはできないから。


すると、言われたことだけやる奴。
全身動かさないと、振りとして極まってないため、踊れてないにも拘らず、
言われたこと=「腰と足(だけ)」を動かしてやった気になっている。
その姿勢は何だ?踊ってんの?踊らされてんの?


確かに、レッスンは教わりにいっている側面がある。
先生も、動きで示す。重要なところは言葉で教える。
けども、あるべき動きは、言葉の中にはない。言葉は代表的なことだけ言っている。
でもそれだけで、いいと思ってしまう。
教えて「もらう」⇒お客様気分。


結局、これも、意識しないと悪気無く見落としてしまう。悪癖。
見えない前提を無意識に自分で作っているわけだ。
言われてないことは、やりません、できませんという受身の態度。
いい大人なので口に出しては言わないけどね。潜在的な受動性は確実にある。


天才は、自分の美学に従って動いている。
表現したいことを、際限なく追求している。
リミットが無い世界にいる。
「言われたこと」をやればいいとかいう形で、限界を作っていないんだ。
美学に限界は無い。表現に限界は無い。
それが自由と言うことかもしれない。


一方で、誰かに言われて、何かをやる癖。
ダンスには自主的に言っているつもりだったけど、
本当に自発的ながむしゃらな態度からは程遠い。
これはこれまでの人生の日常で染み付いた癖なんだろう。


例えば、会社に行く、それなりの役割を与えられてそれをやる。
一見仕事はしています。ある程度、仕事を「作って」もいる。
けど、限界なしの美学はあるか?
絶対譲れない部分とかないわけだ。
「仕事?フレキシブルにやりますよ。はい。」みたいな。
こなしているんです。休日出勤とかは困ります、という態度で。
毎日のほとんどの時間を、見えない誰かに言われたから、という前提でいるんだ。
内発的な動機付けが欠如。つまり、自分を見失っている。


自分基準で物事をとことん追求する、
リミットの無い世界に行かない限り、自由は無いのかもしれない。
そうでない場合、無意識にでも、
どこか「これぐらいで許してもらえる」、「これが正解だろうからこれでひとつ」
という何か外側の基準への寄りかかりがある。


この、主軸を自分に置かない生き方が、相当程度まで自分に侵食しているんじゃないか。
つまり、飼われているわけだ。ご主人様がいる気でいるわけだ。
「だれかのため、人のため」と言うのはいいが、
実のところ「これをやれば認めてもらえる」と見返りを求める姿勢でしかない場合だってある
それは、うまく世渡りしたい、見捨てられたくないということでしかないだろう。
出発点で負けている。
第一問目が間違っているのだったら、CBTと同じで、その後のリカバリーは無理だ。


結局、根本的な態度の問題になる。
というか「生の様式」の問題、「生存の美学」の問題だと思う。
自分の主人が自分なのか、他人・社会・アメリカ・ユダヤフリーメーソンなのか。


いつも、お膳立てしてもらって、
「あなたの役割はこれですよ」と、受験勉強やら仕事を振られて、
忠実に宮仕えをしているわけでしょ。


何がしかを与えられる、
それが当たり前だと思ってきたわけでしょ。
でも、それは「いわれたからやってます」的な無責任さにもつながっている。
ダンス教室に行っても、その態度は一緒。


あえて言えば、「社会的に見て、はたから見て、意味のあること(仕事など)」
をやっている。これが罠かもしれないということ。
「自分にとっての」意味という概念自体がないのではないか?
「与えられたこと、やりました」それが自分の可能性なのか?
飼い犬、あるいは、かわいそうな象。の物語を生きているのか?

フーコーによる「生存の美学」は,いかに,自らを「主体」として他者に,社会に,承認させるのか,といった,ヘーゲル的な「主と奴」の弁証法を基盤として「歴史」に最終的な地点がありうるというフレーム内での運動とは異なるものである.
確かに,抑圧と被抑圧の関係は,本質的には,人間同士の「主と奴」の弁証法に集約されるともいえるが,フーコーが自らの「生存の美学」を語る際に重要なのは,そういった社会関係からの抑圧や,他者との関係における自己の抑圧ではなく,自己の自己に対する関係性における「生の様式」そのものの形成に関する問いである,ということだ.
・・・フーコーにとって「ゲイ」であるとは,「同性愛者の心理的な特徴や目につく外見の自己同一化することではなく,ある生の様式を求め,展開すること」であった(7).それが,生の様式の一つのタイプであるとすれば,そこには多様な「生の様式」が創出されうる,といえるのではないだろうか.
そうすると,フーコーの「生存の美学」は,必ずしも「ゲイ」であるということに対してのみ問われているのではない,ということになる.それを示すかのように,フーコーは,努力すべきなのは,欲望を解放するということではなく,私たち自身を限りなく快楽を受け入れやすくすること」である,と述べている(8).
このように「生存の美学」は,社会階級,職業の違い,文化的水準によるものではないもう一つの多様化,関係の形態でもあるような多様化,すなわち「生の様式」という多様化を導き入れているのである.
このように,社会的・文化的に「差し与えられる生の様式を拒否するある種の流儀」として,「生の様式の多様化」が表明されているがゆえに(9),「ゲイ」ではない人間にとっても,「生存の美学」とは,懸命に「自分」になろうとする意志であるとともに,必死に「自己」という牢獄から離脱しようとする思考であり,営みであると考えることができるのである.


http://www.linkclub.or.jp/~brristol/takimoto/foucault/foucault_deux.html


自分が自分の主人になること、
その上で美学に従って生を追求すること。
日々、がんばって生きているとしても、
そのがんばりは、自分自身の生の様式の獲得につながっているのだろうか。
大事な問いだ。答えるには時間かかるだろうけど。
そして、答えはどこかの本に書いてあるわけではなく、
自分で掴むしかないと分かってきた。


何でも与えてもらえると思うなよ。
天才は笑顔でそれを教えてくれたのだった。


(P)